87.深淵に消えた車は
接戦を演じたカロ爺や、そのほか大勢の走り屋から祝福を受けて、俺が会場に戻れたのはバトルが終わったずっと後だった。
「おめでとう! ばっちり見てたよー! 車は大丈夫?」
「ありがとう、エルマ。Zも無傷だった」
「よかった……」
道路からはみ出て崖に引っかかった右リアだが、サスペンションなどに目立った損傷はなかった。
強いて言うならスピンしたまま滑っていったせいで大きなフラットスポットが出来てしまったが。
フラットスポットというのは読んで字のごとく、タイヤの表面が平らに削れてしまった部分の事だ。
スピンなどでタイヤが回らないまま滑ると、そこだけぺったんこに摩耗して傷んでしまう。
まあタイヤなら交換が効くし、いいか。
「お、いたいた。お前ならやってくれると思ってたぜ。おめでとうな」
しばらくしてウラクが俺を見つけ、声をかけた。
「ありがとう」
ストレートに祝ってくれるのは予想外だったが、それよりも俺の意識が向いているのは、さっきから俺の耳を至高の音色で癒してくれているエンジンサウンドだ。
出所はどこだろう?
「なあウラク、この音って……」
「そう、それを言いに来たんだ。青龍トーナメントの決勝、もうすぐ始まるぜ」
「え!?」
「ほら早く行くぞ!」
駐車したZの車内でうとうとしているエルマを置き去りにして、俺は無理やりウラクに展望デッキへ連れていかれた。
四迅のうち最速のロータリーエンジン車に贈られる称号が“青龍”。
一般的なレシプロエンジンとはそもそも構造が違うため、独特の音とフィーリングが魅力だ。
にしても――――このロータリー、まさか。
「あー、ちょっと遅かったか。レイがさっさと帰ってくればスタート間に合ったのにな」
「うるさいな……」
いつも通りのウラクで少し安心した。
「決勝進出したのは二台ともシェデムだ。一台は黄色の3ローターでブリッジポート。もう一台は青の4ローターでペリポートって聞いたぜ」
「なるほど」
ロータリーエンジンは、複数個のローターと呼ばれる部品が回転してパワーを生み出している。
NAながらリッターあたり200馬力を出すことも容易く、例えばシェデムは654ccのローターが2個で1308ccの排気量とツインターボにより270馬力を発揮する。
もっとも、それは純正での仕様だ。
今走っている二台はそれぞれ3ローターと4ローター。
654×3で1962ccの3ローターは、シェデムが国内レースに参戦し、得意とするタイヤ無交換作戦で猛威を振るっていた頃のエンジンとして有名だ。3ローターが採用された市販車も存在する。
654×4で2616ccの4ローターエンジン――――これは、レース専用エンジン。昔の耐久レースで、ロータリーエンジン初の総合優勝を記録して伝説となった。
それらとほぼ同型であろうエンジンを積んだ二台が、ここに存在する。
ロータリーファンとしてはまさに天国だろう。
ウラクが言っていたポートについてだが、簡単に言えばカムやバルブにあたるチューニングのことだ。
長くなるので詳しい説明は割愛する。あんまり俺ロータリー詳しくないし。
「レイ、聴こえるだろ? どっちも500馬力は出てるっぽいな」
「いや分からん。そうなの?」
今頃バックストレートを駆けているであろう二台。音を聴いてパワーまで分かるのはお前だけだ。
にしても、やはり唯一無二のロータリーサウンドは心地よい。さすがは『神様の楽器』とも呼ばれるだけのことはある。
「そろそろだ。来るぜ」
ウラクの声と被るようにして、一層大きくなったエンジン音と共にシェデムが木々の奥から現れた。
前を走っているのは青い4ローター。かなり後方から黄色の3ローターが続く。
プァァァアアアアアアアアアアン!!!!
「あぁ……もう、最高だ! 生で聴くロータリー以上の麻薬はねぇ!」
うるさいうるさい。麻薬とか言うなウラク。
展望デッキの前を誰よりも速く颯爽と走り抜けた、4ローターのシェデム。
そのエアロを装備した流麗なボディーと雲一つない空のような澄んだ青には見覚えがあった。
ガズルも、来ていると言っていた。
『決まったー! ロータリーの音が良く聞こえる日は晴れと言わんばかりに、ファイン・オリエンスの操るシェデムがトーナメントを制し、“青龍”の座を奪い去った!!』
やはりファインだったか。
ウェットレースについて尋ねたあの日から、ずっと見たかった走り。
あのレースで引退さえしなければ、今頃は世界で活躍していてもおかしくないのに。
「あんなに速かったんだ……」
どうして。
これほどのテクニックを持ったドライバーが、どうしてレースの表舞台から去らなければならなかったのか。
「良いバトルだったよな。ところで、レイ」
ファインが親友を失った“災いのウェットレース”には一体何が――――?
「レイ?」
「……ああ、ごめん。何?」
「あっちですげぇエンジンが展示されてんの、見たか?」
「何それ?」
「へっ、見て驚くなよ。付いてこい」
「あっ……!」
して連れてこられたブースに飾られていたのは、N-0のエンジンだった。
N-0はとあるメーカーが開発した純粋なレーシングカーで、ベースとなる市販車が存在しない。
5年ほど前にこのN-0をほぼそのまま市販化するとして話題を呼んだが、経済不況の影響で計画は頓挫した。
しかしそれでは社内から大ブーイングが飛んだため、数年後に開発されたスポーツカーがエネシスという車種だ。
「そういえば昔あったね、こんなの」
「まあ、このエンジンのまま売られてたら、大抵の奴は事故るだろうけどな」
解説も書いてあった。どれどれ。
内径95ミリ×行程75ミリ、総排気量3188ccのV6自然吸気で500馬力か。
確かにこんなの高回転すぎて、プロのドライバー以外には扱えないかもしれない。
――――ん?
*
『計算してみた結果がこれだ』
ウラクがポケットから計算式に埋め尽くされた手書きのメモを取り出した。
『ボア95ミリ×ストローク75ミリ、総排気量3188cc。ってな感じのエンジンだ』
『す、すごい……』
俺は思わず関心してメモを覗き込む。
『この条件に引っかかるエンジンを、俺は一基だけ知ってんだけどよ……いまいち思い出せねえ』
『なんで知ってるんだよ……』
*
このエンジン、前にウラクと話したっけ。
そんな記憶はあるが、N-0ではなく別の話題だったはずだ。
*
『奴が乗ってる、エネシスのタイプX。あれのエンジンには絶対に何かからくりがあるはずだ』
*
思い出した。
「ウラク。前に首都高で走ったとき、幽霊のエンジンについて話したの覚えてるか?」
「ん? ……ああ、覚えてる」
「あの時のメモ、持ってたら見せて」
ウラクは困惑しながらも、ポケットから計算式に埋め尽くされた手書きのメモを取り出した。
雑に書かれた数字を読む。
“4.75×4.75×3.14×7.5×6=3188.0815”
「もし、お前の言ってたことが本当なら」
と前置きする。
「ああ」
「幽霊のエネシスには、N-0のエンジンが搭載されていることになる」
「……いや待て、N-0は2台しか存在しないはずだぜ。1台は開発テストドライバーのシヴァ・ダリルが譲り受けたし――――」
ウラクが喋るのをやめ、唖然とした様子で目を見開いた。
「じゃあ、どこにあるか分からないもう1台は、ってことか……!?」
「可能性としては、ね」
あくまで俺は仮定の話をしたが、ウラクは首を振った。
「んなバカな……『どこにあるか分からない』つっても、例えばどっかのコレクターが持ってるとかあるだろ。何も急に失踪したとか書いてあるわけじゃねえ」
俺の思考に突拍子もない仮説が姿を現した。
「失踪……したんじゃないか?」
「はぁ?」
「“災いのウェットレース”で消えたのは二人のレーサーと、一台のコンセプトカーだ」
5年ほど前のウェットレース――――時期は一致する。
「そのコンセプトカーがN-0、と?」
察しが早くて助かる。
「もしかしたら二人のうち一人、あるいは両方が盗んだのかもしれない」
「理屈は分かるけどよ……」
「仮に、盗まれたとしたらだ。アイギスはクラッシュして左手首を負傷したはずだから、可能性は低い」
ウラクには一言も話していないが、アイギスの怪我の原因となった歯車のような金属片は今も俺が持っている。
ファインから受け取ったものだ。ファインは失踪した親友が預けたものと言っていて――――
「すると盗んだのはもう一人のレーサーということになる」
ファインの親友だったレーサーがN-0を盗んで、アイギスもろとも姿を消した。
という説だ。
「破綻してはいないが、さすがにもう少し具体的な証拠がないと厳しいんじゃねえのか? そもそもお前は、何のためにそのウェットレースについて調べてんだよ」
「何の、ために……?」
混濁してきた俺の思考を、会場アナウンスが引き裂いた。
『見たか!? その物理法則を無視した華麗なステアリング捌き! ありえないほどの精密さと速さで“白虎”の称号を得たのは、名を明かさない男『幽霊』の、エネシスタイプX!!』
「そういえば、あいつずっと右手だけで運転してたな。左手をシフトレバーに置いて」
とウラクが呟いた。




