86.朱雀にありがとう
走りを終えたイライザ350のドアが開き、げっそり意気消沈したウラクが重苦しい動作で車を降りた。
「お疲れ。まあ、そんな日もあるよ」
と慰めの言葉をかけたが、焼け石に水か。
「あのまま行けば絶対抜けてたのによ! なんでよりにもよってあんなとこで……やっぱ、この車は俺に向いてないかもしれねえ」
「二年間ずっと乗ってきたんだろ。そのうち慣れるって」
ウラクは玄武トーナメントの準決勝でスピンして敗退。
幸いにも車は無傷だったが、メンタルまではそうもいかなかったようだ。
「次はいよいよ決勝か。俺の分まで絶対勝てよ、レイ!」
「頑張るよ。ありがとう」
*
『最速のスーパーチャージャー使いを決める朱雀トーナメント、待ちに待った決勝戦の時間が来た! ここまで勝ち進んできた二台に拍手を!!』
フェアレディZのステアリングを優しく包むように握る。
観客の声は耳に入らない。
俺の中で渦巻いているのはZへの信頼と、途方もない自信だけ。
『右側、準決勝では文句なしの見事な走りで現王者を撃墜! ドライバーはレイナーデ・ウィロー。クーペの流麗なシルエットが風に赤い亀裂を入れる! フェアレディZ!!』
高ぶる気持ちを右足に任せてエンジンを吹かす。
痺れたサウンドが麻薬のように何もかも満たしてくれる。
『左側、オーバーテクノロジーを積んだロストテクノロジー! ドライバーはカロ爺ことカロル・ヘルバイ。時代を超えた怪物の猛襲をご覧あれ! 初代グナットサム!!』
厄介な相手だ。
グナットサムはアマレイク合衆国のスポーツカー。例にもれず古めかしい大排気量のV8エンジンだ。初代グナットサムなんていったら50年以上も前の旧車であり、普通に考えれば赤子の手をひねるようなレースになるだろう。
しかし今回は事情が違う。
地元の人気者・カロ爺はこの初代グナットサムに、あろうことか同じアマレイク合衆国製の最先端スポーツカーであるC7型ヴェルトのエンジンを載せ替えしたのだ。
つまりこれが意味するのは、骨董品同然のクラシックカーが現代の超高性能エンジンを手に入れたということ。
エンジン形式は元々搭載されていたものと同じV8だが、排気量は6.2リッター。もうこの時点でフェアレディZのエンジンとは1.7倍ほどの差があるが、この化け物エンジンにスーパーチャージャーを組み合わせてパワーは755馬力を発揮するらしい。
もう、明らかに峠を走らせるための車ではない。サーキットか、なんなら砂漠にでも行ってきてほしい。
もちろんみんな大好きカロ爺のこと、エンジン以外も抜かりなく。サスペンションを交換してブレーキも強化し、ボディーは溶接増しをして剛性を強化。50年の時を経て劣化した部品も全て新品に交換し、美しい旧車に今なお最前線で戦える性能を与えたというわけだ。
『どちらが勝ってもトーナメント初制覇という熱いバトルに、会場の全てが注目している!』
さあ、いよいよだ。
『3、2、1――――GO!!』
Zが俺の両足を引っ張ったように、瞬時にスタートが決まる。
準決勝ではアクセルの開けすぎでホイールスピンを起こしたが、同じミスはしない。
駆動力を確実に路面へ伝え、常識外れのスピードで狭いコーナーへ飛び出していった。
真横のグナットサムも全く譲る気配を見せず、横並びのまま1コーナーへ入る。
そういえばここは公道だから、コーナーに番号は付けないんだっけ。
二車線がギリギリの細道を並走したまま、右、左の高速コーナー。
前半は度胸試しだ。恐怖心を取り払って曲率だけ見れば、全開で抜けられるカーブも多い。
横Gで体が吹っ飛びそうになるのを抑えながら、登りの短いストレート。次いで、左コーナー。
今までずっと真横に並んだまま俺以上のスピードで走り抜けてきたグナットサムが、ここで初めてインを刺した。
なすすべもなく俺はアウトに膨らみ、岩肌の餌食になる未来が脳裏をよぎった。
アクセルを一瞬緩め、すぐに全開。俺を置き去りにしてグナットサムが一足早くコーナーを立ち上がる。
抜かれた。
下りのトンネルに入る頃には、差が目に見えて開く。
駄目だ、こんな峠道を恐れているようではクラス2のレースなんて出れるはずがない。
サーキットよりほんの少し見通しが悪くて路面が滑って道幅が狭くたって、俺がやるべきことはただ一つだ。
トンネルを抜けて右コーナー。
アウト側のガードレールすれすれまで外に振って、崖の側面にタイヤを引っ掛けるイメージでインに寄せる。
最低限の減速のためにブレーキペダルをそっと触り、アクセルを全開に戻す。
完璧だ。
前との距離が縮む。やがて差は埋まり、グナットサムに追いついた俺は揺さぶりをかけようと左から仕掛ける。
唯一、次の左コーナーだけは道幅が他より広くなっている。抜き返すには絶好のポイントだ。
スリップストリームから抜けてほぼ真横に並んだ。
進入のブレーキング勝負。
ギリギリまでアクセルは全開だ。
まだこらえる。
もう少し。
真横に並んでいたグナットサムが景色と同化して後ろに飛ぶ。
今だ。
ブレーキ、クラッチ、シフトダウン。一つ一つの動作が完璧に行われ、Zは瞬く間にスピードを失っていった。
しかしここからまともにコーナリングしていては間に合わない。どう考えても崖から落ちる。
仕方なく奥の手を使う。
左手をステアリングから離し、サイドブレーキのレバーを掴む。
意を決して一瞬だけ引き、すぐさまアクセルを吹かすと、やはりリアが滑って流れた。
そのままアクセルを開けつつ右にカウンターを当てて、再び加速。
お前ほど上手くはなくても、これぐらいならできる――――なんて思ったところで、そもそも会場からは見えてないか。
スピードを殺さずに膨らんだコーナーを処理し、また長いトンネルに差し掛かる。
俺の後ろに潜むグナットサムはスリップストリームで最高速を伸ばそうと必死だが、いくらエンジンが怪物級とはいえボディーは旧車。空気抵抗の面ではフェアレディZに劣る。
――――いや、そうだろうか?
755馬力という途方もないパワーを与えられたグナットサム。俺のバックミラーの中で存在感がじわじわ増している。
近い。
グナットサムが真後ろから逸れて横に並ぼうとするのを、俺はZを左右に振って牽制する。
トンネルを抜け、崖の向こうに湖が見えた。
次のコーナーに――――
「うっ!?」
タイヤの感覚が消えた。
――――戻った。
何のことはない、路面の凹凸で少し車が跳ねて、一瞬フロントタイヤが浮いただけ。
しかし思わず緩めてしまったアクセルを踏み直す前に、左コーナーが来てしまった。
リズムを崩されて思うようにアプローチできない。グナットサムがインを刺そうとして、俺は無理やりラインを被せる。
だが抵抗も空しく、脱出で一歩先を取られた。
再び真横に並んだまま後半セクションを駆け抜ける。
左、右に切り返し、パワーを操っているグナットサムと対照的に俺はパワーに引きずられている。
このまま横から仕掛けるのは無理だ。
いったん真後ろに引いて、様子を伺う。
――――何をのんきに考えているんだ?
もうゴールが近い。
短い直線でスリップストリームに付く。最後コーナーとなるS字がラストチャンスだ。
ここのS字は左から右に切り返すコーナー。最初の左でインから抜けば、次の右はアウトに流れても大丈夫だから――――
並ぶ寸前で読まれた。
左を塞がれ、仕方なく右から仕掛ける。
コーナーが迫る。崖下に広がる暗い森が迫る。
どれだけ減速せず直線的に抜けていけるかが勝負だ。
インにグナットサム、アウトにフェアレディZが陣取って二台同時にS字へなだれ込む。
左コーナーブレーキング勝負。しかし次の右コーナーはガードレールがない。突っ込みすぎれば崖に呑まれ、そうでなくとも失速して右コーナーの脱出で抜き返される。
インのグナットサムが先にブレーキを踏んだ。俺がしばらく間をおいてじんわり減速。
余裕を持って抜くが、次のコーナーへのアプローチが間に合わない。
落ち着け。
ここを抑えればゴールはほんのすぐそこだ。勝てる。
だが無理やりブレーキングを遅らせた代償は大きく、右コーナーに差し掛かる頃にはスピードに乗ったグナットサムがアウトから被せてきた。
速い。
まだまともにブレーキも踏めずつっかえてる俺からトップを奪うのは容易いだろう。
「あぁもう、しょうがない!」
こうなったら、最初から減速なんてなかったことにすればいい。
左に曲げていたステアリングを真っ直ぐに戻す。
そのままアクセルを全開に。
片輪だけなら、崖を飛び越えてインカットしても生きて帰れるはずだ。
「行けっ!」
今はまだかろうじて地面に接しているタイヤが、懸命にパワーを伝える。
ここで出来るだけ加速してスピードを稼いでおかないと、谷底真っ逆さまだ。
そのとき、俺は微かに違和感を覚えた。
左からずっと聴こえていたグナットサムのエンジン音が、勢いをわずかに失ったように感じた。
S字の脱出を早く加速しすぎたせいでアウトへ膨らみ、仕方なくアクセルをほんの少し緩めた――――のか?
左側の壁ギリギリまで不自然に逸れている。
間違いなく、失速している。
俺もそれに合わせてインカットしようとしていた崖から遠ざかろうとする。
このまま実直にアクセルを踏んでいけば勝てるはずだ。
しかし、判断がわずかに遅かった。
ガタン!
と強い手応えが俺の両手を痺れさせる。
右リアタイヤだけが道路をはみ出て崖に引っかかり、跳ねてコントロールを失った。
幸い崖に落ちるということはないが、この狭い道幅では到底立て直せない。
「待っ……て」
数メートル先のフィニッシュラインが視界を掠める。
しかしそれはフロントガラス越しではなく、運転席側のドアウィンドウから見た光景だった。
スピンする。
必死にカウンターステアを当てるが、間に合わない。
白煙を上げながらも制御不可能に陥ったフェアレディZの慣性を俺は止められず、そのままかなり長い距離を横滑りしてようやく止まった。
コースと逆向きに停まった俺を、グナットサムが追い抜いて――――
タイヤの煙が収まった後に見えたのは、フェアレディZより後方にあるフィニッシュラインだった。
「はぁ……はぁ……」
心臓の音がありえないほどにうるさい。
少しして、会場ごと峠を覆いつくすほどの観客の歓声が全身を貫いた。
『――――な、何が起きたのか!? S字の激しい攻防、姿勢を崩しながらも先にフィニッシュラインを超えたのはレイナーデ・ウィロー!! 新たな王者となる、“朱雀”フェアレディZの誕生の瞬間だ!!!』
俺が先に、フィニッシュ――――?
勝ったのか。
勝ったんだ。
「やった……やったやったやった!!」
このフェアレディZが、“朱雀”に。
スーパーチャージャー最速の称号を手にしたんだ。
「本当に、ありがとう……改めてよろしくな、“朱雀”」




