77.罰されるべきなのは
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俺が目を覚ましたときには、太陽はだいぶ高くなっていた。
身体を起こし、床に立ったところで初めて右腕が治っていることに気付く。
「大丈夫、なのか?」
独り言を呟いて右腕を曲げる。伸ばす。何もおかしな事は起こらない。
俺は階段を降りた。
第5戦、つまり最終戦まで時間が有り余っているわけもなく、俺はZの整備をしようと近寄る。
目の前の赤い怪物は、かがんで覗き込んだ俺に向かって鋭い眼光を放った。
俺は明らかにこのZを恐れている。
――――いや、違う。
Zを運転している時に突如として襲う、自分の魔法とやらを恐れている。
それをZのせいにするのは責任転嫁も甚だしいだろう。
悪いのは俺だ。
魔法とは名ばかりで、こんなものは災厄に等しい。
だがそれは全て俺のせいであって、Zには何の罪もない。
例え俺がZの運転さえできなくなったとしても、俺がやらなければいけないことは何一つ変わらない。
俺はガレージの工具箱からエアゲージを取り出し、タイヤ一つ一つの空気圧を測る。
適正なレベルだ。
次はエンジンルーム。
ボンネットを開けるため、運転席側のドアを開く。
「……エルマ!?」
なぜかZの車内でエルマが寝ていた。
「んん……レイ?」
エルマは眠そうな目で俺を見上げる。
「そんなとこで寝てたら風邪引くぞ……というかなんでここに?」
「作業してたら眠くなっちゃって、たまたま近くにあったZで仮眠とってたの。勝手に使ってごめんね」
「いや、別にいいけどさ。寝心地悪かったでしょ?」
「全然?」
「そう? ならよかった」
エルマが降りて、俺はボンネットを開ける。
クーラント液とエンジンオイル、ともに問題なし。
「ねぇ、レイ……ドライブ行かない?」
「えっ?」
ボンネットを閉めると、助手席側ドアの傍に立っているエルマがいた。
こんな感じでドライブに誘われるのは、考えてみれば初めてかもしれない。
「い、忙しかったら、別に――――」
「いいよ。行こう」
俺は真意を察する間もなく、運転席に乗った。
助手席にはエルマが座っている。
ブレーキとクラッチを両足で踏みながら、エンジンスタートスイッチを押す。
いや、押せていない――――触れられない。
指が震える。
俺は一体何をしているのだろうか?
エンジンを掛けられない。
「レイ、どうしたの? 大丈夫?」
「分からない……押せないんだ」
自分でも馬鹿げていると感じる。
エルマが横から手を伸ばし、スイッチを押した。
ブレーキとクラッチが踏みっぱなしだったために、エンジンに火が入る。
ブォォォオオオオオオオォォォン!!!
「――――――――っ!?」
次の瞬間、俺は飛び退いて車を降りていた。
「……はぁ……はぁ……」
全く俺はどうしたのか。
これでは認めざるを得ない。
俺は、Zに乗ることができなくなった。
魔法によって意識を失い、危うく事故を起こす寸前だったことがトラウマで。
「レイ……」
慎重に言葉を探す。
「ごめん、エルマ。ドライブはまた今度――――」
「私が運転しちゃ……ダメ、かな?」
予想もしなかった提案に、俺はしばらく答えが淀んだ。
エルマが、俺のフェアレディZを運転する。
そこに拒否する理由はないだろう。
「……いいよ」
「じゃあ決まり! ほら、助手席に乗って。行こう!」
俺は前から回りこんで、反対側のドアを開け乗り込む。
既にエンジンが掛かっていて乗り手を待ちわびている運転席には、エルマが座った。
ハンドルとシートのポジションを「ん、こんなもんかな?」なんて言いながら調整している光景はとても様になっている。
「よし、出発!」
エルマは車を持っていないが、仕事の手伝いで店の軽トラを頻繁に運転している。
メカニック学科とはいえラ・スルス自動車上級校の卒業生でもあるし、心配は無用だろう。
俺でさえ驚くほどの滑らかな発進でZはガレージを抜け出し、店の前の通りに合流した。
「それでエルマ、ドライブってどこ行くの?」
「んー……それはまだ秘密、かな」
「なるほど」
目的地は分からないが、首都高架道路に乗って南下していくルートを進んでいる以上、少なくとも近場ではなさそうだ。
にしても昼だというのに今日は交通量が少ないな。……嫌な予感がする。
フォアアアアアアアアァオォォオォォォォォン!!!!
さっきまでバックミラーにさえ映っていなかった車が、一瞬の風と共に俺たちを抜かしていった。
「うわ、速っ!」
エルマは6速でゆっくり走っていたギアを、減速せずにそのまま4速まで落とした。
まさか。
「追いつけるかな……?」
やめろ、あれはランドヴェティルだ。この前フィーノが持ってきたフェンリルと肩を並べる、ティアルタ共和国製の超高級スーパーカーブランド。
このZで敵うはずがない――――
ヴォォァァァアアアアアアアアアアアア!!!
「うっ!」
急激な加速によって俺の背中がシートに押し付けられ、思わず声が出る。
エルマ……正気か?
身体を少し右に乗り出してスピードメーターを確認した。
もしこれが俺の見間違いでなければ、針は230キロあたりを指している。
エルマの左手が音もなく仕事をこなし、ATかと錯覚するほどスムーズなシフトアップでZはさらに加速する。
もう6速……!?
普段は自分で運転しているから気が付かなかったが、Zはこれほどまでに常軌を逸したパワーで駆けていたのか。
その暴力的かつ無秩序な加速力は、もはや――――狂気と表現するに等しい。
俺の研ぎ澄まされた感覚が『300キロに到達した』と警鐘を鳴らしたころ、視界に濃いオレンジのランドヴェティルが再び、その圧倒的な存在感と共に姿を現した。
Zがジリジリと追いついていく。
「あと、ちょっと……!」
真後ろにくっついて空気抵抗を低減するスリップストリームの効果もあって、ついに横に並んだ。
しかしあと一歩足りず、前へ出ることができない。
「ねぇレイ、なんか速くなるボタンとかないの?」
「ないよ!」
あったらとっくにレースで使ってる。
「Zはターボ積んでないからスクランブルブーストもないし」
と俺は独り言を呟くが、その一言でエルマの険しかった表情が明るくなった。
「このZ……スーパーチャージャーだよね?」
「うん」
「今も過給してる?」
「してる」
「どうにかして駆動力を切り離せない?」
そんなこと、最初から仕組んでいなければできるはずもないだろう。
――――例外は俺の魔法だ。
エルマはそれについて知らないはずだが、やはりこの状況から最高速を伸ばすにはそれしかないという結論にたどり着いたのか?
原理的に考えれば筋は通っている。スーパーチャージャーの存在は加速力を増強するが、加速しきった高回転域では抵抗になる。
「……方法はある。試す?」
自分で言っておきながら、俺としては試す気は更々ない。
ただでさえコントロール不能、いつ火を噴くか分からないねずみ花火のようなものを、あろうことかエルマを危険に晒してまで行うなんで言語道断だ。
「試して」
「どうなってもいいなら」
「このまま抜けないよりはマシだから、試して!」
……俺が悪かった。
せいぜい最悪の結果を招かないように、幸運を祈ろう。
意識を集中させる。
たしか魔法は、精神と特定の物との同調だったはず。
目を閉じて深呼吸すると、身体が助手席のシートを通じて車に溶け込んでいくような感覚を得た。
ガソリンに溺れながら俺はエンジンを探す。
空中を前へ進み、脳裏に心臓のような幻視が見えた。
浮かんだまま、目的のスーパーチャージャーを探す。
今目の前にそびえ立つ世界樹のような存在は、エンジン本体――――シリンダーブロックだ。
吸気と排気の様子が俺の意識に直接叩き込まれる。
正面に回り込み、エンジンを見下ろす。
底面あたりの中心で回っている金属が、クランクシャフト。
そこから繋がっている……見つけた。
あれがスーパーチャージャーだ。
俺はゆっくり歩み寄り、電磁クラッチを切り離そうと手をかざす。
そこから声が聞こえた。
「来ないでって言ったわよ?」
振り返ると、貴婦人のような赤いドレスを着た少女が立っていた。
どこかで会ったような気がするが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「俺は、これを切り離さなければならない。どうすればいい?」
「あなたは……もしかして、私を許そうというのかしら?」
その瞬間、俺は脳裏に見たくもないはずの光景が蘇った。
エンジンブロー、炎上、死、転生、首都高、魔法、スピン――――脈絡のない点々とした情報だったが、俺が理解するにはそれで十分だった。
「もちろん。あんなことをした俺を許してくれたんだ、俺だってこの程度のこと気にしないよ」
「……ありがとう。今までのこと、ごめんなさい」
「いいって」
そう言うと、少女は消えた。
俺はもう一度スーパーチャージャーに手をかざして、呟く。
「罪を犯し、罪を受け入れた。お互い水に流して、共にもっと上を目指そう」
瞼に言いようのない眩しさを感じる。
俺が目を開けると、ついさっきまで夢を見ていたような感じがした。
「どう、エルマ?」
「ありがとう。完っ璧……!」
一切のノイズが除去された、美しい管楽器のような音色がエンジンから響いた。
天使のように透き通った純然たるスピードに乗ったまま、Zは風や時間やランドヴェティルを置き去りにして、どこまでも羽ばたいていく。
それが限りなく気持ち良くて、俺はすっかりトラウマのことなど消え去っていることに気付いた。
もう忘れよう。全ては水に流したことだ。




