76.大切な命はここに
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俺はウラクを見送ると、自分が眠気で今にも倒れそうになっていることに気が付いた。
深い紺色の空に掛かっているいくつかの雲は、うっすらとオレンジに染まりつつある。
かなり疲れていることを客観的に認識させられる。
俺はいつものように寝ようとして、Zのドアを開けた。
――――乗れない。
何がどうあるわけでもなく、しかし、俺はこの赤いフェアレディZに乗れない。
理由は分からなかった。
心臓が疲弊しきった身体の中で激しく脈打っている。
肺が何者かに押しつぶされていくような錯覚を覚え、俺は必死で息を吸う。
急激に狭まった視界の中で、半開きのドアを手で支えたまま考える。
俺はシートの後ろから手早く毛布を掴み、その勢いのままドアを閉めて飛び退いた。
きっと疲れているんだ。そう自分に言い聞かせる。
ガレージの階段を上り、部屋にゆっくり足を踏み入れた。
ここで寝るのは久々だ。
既にぐっすりと眠っているエルマとシビくんを起こさないように注意しながら、俺はベッドに入る。
そうして片手に抱えた毛布を広げ、頭まで被った。
実のところ、俺の右肩にぶら下がっている腕の形をした肉塊は、まだ感覚が戻っていない。
毛布程度ならなんとかなったが、少なくともこのままでは日常生活もままならないだろう。
どういったらいいのか分からない不思議な感覚だ。
俺が前世で小学生だったときにエンジンルームに手を突っ込んで腕の広範囲にやけどを負ったことがあったが、その時以上に自由が効かない。
懐かしいな。
遠い昔の日に父親は事故を起こした。
それから俺が12歳になるぐらいまで、母は中古のスカイラインを買ってずっと大切に乗っていた。
あの時にもう一回遡れたとしても、きっと俺はもう一度エンジンルームに手を突っ込んでやけどするだろう。
想像を絶するほど痛かった。やわな小学生だった自分には到底考えられないような熱さだった。
それでも、たった一瞬だけ感じた表現しようのない満足感があった。
生まれて初めて生命の躍動に触れたような、そんな気がした。
車は地球上に存在するどんな生き物よりも一生懸命に生きている、とさえ思った。
俺がそのとき感じた感動は、やけどの痛みなんかよりもずっと鮮明に覚えている。
ボンネットの下には、何か大事な物がそこにあって、それは俺の心を漠然とした幸福で埋めてくれるはずだと俺は思っていた。
そんな儚い子供の妄想を、ここにいる俺は否定しない。
現に、今がまさにその通りだから。
それまでただ車が好きだった少年は、『車を運転したい』という、しばらくの間は絶対に満たされることのない欲求に溺れた。
やけどをした日以来その欲望は日に日に増していき、どうしようもなく感情が高ぶって夜眠れなかったことも一度や二度ではない。
中学校に入って、いよいよ俺は制御が効かなくなってくる。
16歳になったら車を運転できるオーストラリアかどこかへ留学しようと本気で考えていた頃だ。
登下校中に6気筒のエンジン音が聴こえたときはすぐさま振り向き、通学路で圧倒的な存在感を放っていたGT-Rを走って追いかけ、気付いたら知らない場所にいた。
要は、俺は異常者だったのだ。
中学の頃、数少ない友人から「顔だけは良い」と言われていたにもかかわらず、結局生涯の間恋人ができなかったのもそれが原因だろう。
もちろんそんなことに興味はなかった。
そもそも俺からしてみれば、よくみんな人間を好きになれるものだと常日頃思っていた。
なぜ、あの男はそこに停まっているスープラを無視できる?
どうして、あの女は今すれ違ったRX-7を追いかけない?
理解に苦しんだ。
過去に思いを馳せていたら、いつのまにやら俺は眠っていた。




