73.結末を待ち望むか
痛みはない。
酷使してきた肉体の疲れはあるが、俺は絶好調だ。
お前はどうだ?
水温、油温、問題なし。
ガソリンも余裕で足りる。目立った不具合はない。
まだ行けるよな。
2位を走る51型シノレにギリギリぶつけないように、左へ振って横に並ぶ。
イン側は取った。1コーナーへ二台揃ってなだれ込んでいく。
最低限の減速のためにブレーキをそっと触り、インをキープしながら旋回する。
すでにタイヤが疲弊しきっているシノレはアウトへどんどん流れて行き、やむを得ないブレーキで失速していた。
俺はそれをバックミラーで確認し、完璧なタイミングで加速しながらアウトに出る。
「1位の22ヴィバームスは――――」
『タイム差?』
「いや、さっきの周のタイム」
『40秒7』
「OK。ありがとう」
エルマから情報を受け取り、前を見る。
前との差は目測で約1秒。
追いつける。絶対に追いつく。そして、抜く。
登り勾配があるからアクセル全開のまま、ステアリングだけで緩いコーナーを捌く。
そして下りながら左コーナーだ。
車の重みを前に移すような感覚で、じんわりとブレーキ。
リアをわざと若干滑らせ、より早く車の向きを変える。
そしてより長く、加速の時間を確保する。
上手くいった。目測0.7秒。
ここからまた長いストレートを挟んで、下り左低速コーナー。
進入は出来るだけ突っ込め――――ただし突っ込みすぎはその瞬間、全ての終わりを意味する。
再びZに足を引かれるような感覚があり、フルブレーキング。
まだ少し余裕があったが、いいだろう。
ゆっくりインを掠め、加速しながら右コーナーをクリア。
そしてキツめの左コーナーを着実にこなしていく。
目と鼻の先を走る、深いグレーのヴィバームス。
真後ろにぴったり付けながら追っていき、あっという間に最終コーナーだ。
焦るな、準備は完璧だ。
イン側の右に振って、後先考えずにそのまま突っ込んでブレーキング。
ステアリングを右に。ブレーキを離し、アクセルに足を載せ替える。
タイヤの限界を探りながら、慎重にアクセルを開けていく。
バックミラーは見ない。
アウト側は塞いだ。
あとは最後のメインストレートを加速していくだけ、ゴールまで残り400メートル。
加速感で圧力がかかる。
シートにきつく押し付けられたはずの背中には、何の感触もなかった。
深海の底を漂っているような浮遊感。
かろうじて感覚が残っているのは、ステアリングを握っている両腕と、Zに掴まれている脚だけだ。
それ以外はまるで空気に溶けたかのように、感覚がない。
感覚はないが、それを抜け出した純粋な概念としての痛みだけが依然として存在し続けた。
身体のどこが痛いわけでもない。どのぐらい痛いわけでもない。
ただただ痛い。
俺という存在を薄く広げて伸ばし、上下からプレス機でじっとり潰されているような痛みだ。
耐えろ。
ぐちゃぐちゃになった視界に歪んで映っているバックミラーは、もう後ろの車に追いつかれることはないという希望を示唆している。
しかしそんな希望を片手でいとも容易く握りつぶすような、俺が到底太刀打ちできないほどの絶望が脳裏をちらついてしまった。
誰かが囁く。
『お前は死ぬ――――』
考えることを放棄する。
身体を、精神を、俺が持てる全力の力で投げ捨てるように、俺は目を閉じた。
数秒。
目を開ける。
『――――――――!』
声が聞こえた。
『やったー! 初優勝! 最後すごかった!!』
「……はぁ……勝っ、た……?」
『勝ったよ! 長い勝負だったね……おつかれ!』
あぁ、俺は今ここにいるために。
こうして誰よりも速くフィニッシュするために。
全てが終わったとき、エルマの喜んでいる声を聞くために、戦っていた。
そして、勝ったんだ。
「……っしゃぁああ!!」
もちろん勝利は俺だけの力ではない。
「いつも力になってくれて、本当に……ありがとう」
『いいって! それより、最終戦もよろしく頼むよ!』
「もちろん。任せ……といて」
と返事したはいいが、実際のところは微妙だ。
いや正直に言って、なんとかしなければならない。
毎レースごとに魔法のせいで命の危険を感じていては、俺の精神が持たない。
体に関しては一時的な痛みだから我慢さえしていればなんとかなる――――なんて言えるのは、今だからだろう。もし今も痛みが続いていたらと考えるとおぞましい。
しかし魔法はそもそも精神に負担がかかっているため、厳密にいえば肉体的な影響は及ぼさないらしい。
以前調べたところによると、あの痛みは酷使された精神がそのダメージを逃がすため、一時的に身体を受け皿にしているだけのようだ。
まあ詳しいことは分からないが、少なくとも骨折したりだとかそんなことは起こり得ないとみて間違いない。
何にせよ、今日のレースは最高の結果で終えることができた。
まずはそのことを喜ぼう。
そして、いつも一番の働きをしてくれている相棒に労いの言葉を忘れるわけにはいかない。
ありがとう、Z。




