72.陰にずっと潜む者
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二人のレーサーが失踪したウェットレース。
親友を失い、雨の日はもう絶対に走らないと決めたファイン。
そして俺が受け取った金属片は、アイギスの左手首に切り傷を作ったという。
――――ああ駄目だ、集中集中。
全国選手権第4戦、スタート前。
ブロックごとに戦ってきた全4戦の結果によって、第5戦の出場資格が決まる。
といっても予選は3位だし、よほどのことがない限りは大丈夫だろう。
『ねぇ、本当に薬飲まなくて大丈夫なの?』
復活したエルマから無線が入った。
「このレースは失敗できないし、記憶を失うなんて事態も避けたい」
『でも……』
「俺のことは心配しなくていいから。それより車のこと、よろしく頼むよ」
『……うん!』
いつも力になってくれてありがとう――――なんて言葉は、レース後にとっておこう。
息を吸う。制御不可能な忌まわしい魔法から俺を守ってくれるものはどこにも存在しない。
息を吐く。
赤いシグナルが点灯する。
辺りを包み込むレース特有の熱気。
アクセルペダルからエンジンの鼓動がひしひしと伝わってくる。
シグナルが、今――――ブラックアウト。
まるでZが俺の右足を引っ張ったかのように、自分でも驚くほどの反応速度でスタートを切った。
目を開けろ。耳を澄ませ。戦いを生き抜くんだ。
隣の4番グリッドに並んでいたはずの車がいつのまにかバックミラーに映っている。
1位と2位の真ん中に車体をねじ込み、そのままなだれ込むように1コーナーへ。
ここはイン側が低く、アウト側が高くなっているバンクの付いた高速コーナーだ。
俺を含めた3台が、そのまま進入していく。
キュッ!
「はっ!?」
右真横のドライバーが不安定な挙動のまま、こっちに――――
俺はやむなくアクセルを抜く。
「危な……」
そのせいで前の二台に比べて加速がわずかに遅れ、その差が次のストレートで開いた。
それまで横並びで走っていた二台のうち、さっきミスした方が真後ろから隙を狙っている。
現在トップを走っているのは、深みのあるグレーが印象的な22型ヴィバームスV。
過去3戦の結果はそこそこだ。油断ならない。
その後ろ、2位は派手な空力パーツを付けた51型シノレのSpec-R。
言うまでもなく第1戦でギリギリ俺が勝てなかった相手だ。
俺はシノレのブレーキランプを追いながら作戦を考える。
大事なのは誰よりも速くフィニッシュすることだ。
まだレースは長い、焦るな。
俺のZは他車に比べて車重が若干重いのが弱点だろう。それはタイヤの摩耗を早めるというデメリットをもたらす。
しかしいつまでもタイヤを温存していては抜けない。
つまり、相手のタイヤを俺と同じ――――いやそれ以上に摩耗させられれば。
決まりだ。
コーナーが来るたびに競り合っている前の2台を追い続け、後ろから仕掛ける素振りでプレッシャーを与える。
そうすれば余儀なく無理なラインを通ることも増え、タイヤに負担を与えられるだろう。
最後の最後で、俺が刺す。
それまで俺の精神力が持つか。
思考を終え、頭の中を一度空っぽにしてリフレッシュし、集中状態を作り直す。
その頃にはレースは3周目に突入していた。
「トップのタイムってどんな感じ?」
『んーっとね……さっきの周は1分40秒1』
「なるほど。ありがとう」
俺は前の二台から少し間を開け、様子を伺いながら走っている。
追いつこうと思えば追いつける距離だ。だが少し離れてタイヤを温存するのがベストだろう。
あまり近づきすぎるとエンジン冷却にも支障が出る。
まだ始まったばかりだ。
*
『2位の車がここまでセクターファステスト! あと少ししかない……!』
セクターファステスト――――通常、サーキットは3つほどの区間によって一周が成り立つ。
このセクタータイムによってそれぞれの車やドライバーが得意とするコーナー、苦手とするコーナーなどが分かる。
俺の前の車がファステストということは、この周で走った第1セクターと第2セクターのタイムが全体ベストだったということだ。
「了解。さあ、ここからだ!」
緩く右に曲げながら、フルブレーキングして左コーナー。
そのままの勢いで再びアクセルを一度吹かし、この右ヘアピンが最終コーナーだ。
アウト側の縁石が視界に入るのと同時に、アクセルを最後まで踏み切る。
ロケットの如き加速。
前の車の真後ろに入り、スリップストリームを狙う。
空気抵抗が低減され、スピードメーターの針は異常な勢いでのし上がっていく。
1コーナーまでに並べれば。
伸びろ。
首筋が痛い――――――――駄目だ、ここまで来て魔法なんて冗談じゃない。
骨ごと砕けたように痛い。もうリタイヤは御免だ。何が何でも抑えろ。
痛い。アクセルから足を離すわけにはいかない。どうすればいい……?
『ファイナルラップ! 頑張れー!』
「……分かって、る。……ありがとう!」
――――情けない。
エルマに心配するななんて言っておいて、今さら俺は何のつもりだ?
俺は俺の仕事を、最後までやるしかないんだ。
そして、無事に帰ってくるんだ。




