71.深淵を覗く時
“災いのウェットレース”。
俺もウラクも知らなかったその言葉は、5年以上前のとあるレースを指すらしい。
その日は特に強い豪雨が降り注いだが、レースはそのまま行うことが宣言された。
各チームがレインタイヤの装着をはじめとした様々な作業に追われ、慌ただしい雰囲気のなかレースが始まった。
予想されていた通り1周目は大荒れ。
優勝候補のベテランや期待のルーキーなどが早々にリタイヤしていくなか、トップに躍り出たのはアイギス・イルハッシュという名のレーサーだった。
だがレース中盤、アイギスがスピン。
そこから多重クラッシュを巻き起こし、レースは赤旗中断となった。
その後、レースに出場していた二人のレーサーと一台の車が消えた。
二人のうち一人はアイギス。もう一人はクラッシュを回避し、少しの間だけ2位を走ったレーサー。
車はどちらのマシンでもなく、レース主催側のスポンサーである自動車メーカーがアピールのためにサーキットへ持ち込んだ、新しいスポーツカーの試作車だった。
それらは二度と姿を見せなかった。
*数日後*
山から吹く風が心地よい。
俺はZの窓を全開にして、のんびり高架道路を下っている。
目指す目的地はゲメント山。
ゲメント山が走り屋の中で広く知れ渡っているのは、合法的にスピードを出せる唯一の峠だからだろう。
入り組んだ山道のゲメント峠は、なぜか高架道路として扱われている。
もちろん高架もなにもない。あくまで法律上、そうなっているだけだ。理由は分からない。
ともかく、速度制限がないただ一つの峠ということで、走り屋にとっては首都高に次ぐ第二のサーキット的な意味合いを持つ。
俺は今日、そこへ向かっている。
もちろん走りたいのもそうだが、ある人を探しにいくのだ。
「あ、ここか。危ねっ」
山の景色を眺めていたら、降りるべき高架道路の出口を逃すところだった。
ウィンカーを付けて、ゆっくり車線変更する。
目の前に大きくそびえる緑の山は、俺に遠い過去の情景を一瞬だけ思い出させた。
「やっと着いた……」
Zを駐車場に止める。車を降りて一息。
山の空気が身体を包み込んでいる。
ゲメント峠は複雑に入り組んでいるが、最もよく使われるのは非公式的に周回路と呼ばれているコースだ。
この駐車場を出て左周りに走っていき、上り勾配のトンネルと長い直線を抜け、複雑な狭いコーナーを下れば、一周してここに戻ってくる。距離はだいたい4キロといったところだ。
故に、この周回路のタイムは走り屋にとっての勲章として扱われている。
よくもまあ、こんな視界の悪い道を車で攻めようなんて気になれるもんだ。もちろん自分も含めて。
「……?」
手のひらが冷たい。
右手、左手。首筋。感触がある。
さっきまで青かった空は、どんよりとした灰色に覆われている。
そのことに俺が気付いた時には、雨はザーザーと音を立てながら地面を叩いていた。
『山の天気は変わりやすい』とは聞いていたが、見くびっていた。
せっかく来たから走ろうと思ったのに。
いや、無理ではないか。むしろこれから全国選手権で雨のレースがないとも限らないし、今がチャンスと見て練習しておくべきか?
しかしさすがに、ただでさえ見通しの悪い危険な峠を初めて走るのに、雨なんてリスクを冒すわけにはいかない。
「すぐ晴れてくれるといいんだけどな……」
山の神にでも祈るような気持ちで呟いた独り言に、返事が返ってきたのは予想外だった。
「しばらくは……降り続くよ」
「えっ?」
思わず後ろを振り向くと、一人の走り屋が無気力な目をして立っていた。
傘も差さずにショートヘアを濡らしている彼女は、見た目でいえば俺より2つか3つ年上だろう。
近くには、さっきまでの晴れ渡った空を全て詰め込んだかのような、綺麗な青色のシェデムが止まっている。
美しいボディーラインが雨のしずくによってさらに引き立っていて、俺は思わず見惚れてしまった。
「そのシェデムは私の。何か用……?」
やはり、このシェデムが彼女のものだとしたら。
「ファイン・オリエンス……」
「……どうして、私の名前を?」
“災いのウェットレース”でトップを走っていたアイギスがスピンした時、間一髪でクラッシュを回避して1位に躍り出た、当時最年少のレーサー。
にもかかわらず、ファインはあのレース後すぐに引退した。まるで失踪した二人の後を追うように。
あのレースの真相とは。なぜ二人のレーサーが姿を消したのか。なぜファインは引退したのか。
それらを聞くために、俺はここまで来た。
「とりあえず、一緒に走りませんか?」
俺が聞くと、ファインの表情が変わった。
不安。恐怖。憎悪。しかし、それらの感情は俺に向けられたものではないことが分かる。
まるで迫りくる遠い過去の記憶を恐れ、この世の全てから自身を切り離そうとしているような、そんな目だった。
「……嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だ……」
ファインは深呼吸して、シェデムに乗った。
「もう雨の日は、絶対走らないって……決めたから」
ドアを閉めてエンジンをかけようとするファインを、必死に呼び止める。
「じゃあせめて、あのウェットレースの話だけでも――――」
「私は……!」
遮るように、少し強い口調でファインが口を開いた。
「……あのレースのせいで……たった一人の、親友を……」
――――そういうことか。
例のウェットレースに出場していた中で、ロータリーエンジンを積んだマシンは2台だけ。
そのうち1台は、今俺の目の前にあるファイン操る青いシェデム。
もう1台のドライバーは、アイギスと一緒に失踪したはずだ。
「もし君が……どうしてもそのレースについて調べたいというなら、止めはしない。……これ、あげる」
そう言ってファインは、俺にあるものを手渡した。
「それは、私の親友が姿を消す直前に、私に預けたもの。あの子は……『アイギスはクラッシュした時、これで左手首を切った』って言ってた」
手渡されたのは、割れた金属片の一部だ。
おそらく駆動系の一部……フライホイールか、トランスミッションか。そのあたりだろう。
確かにそこらへんの歯車が吹っ飛んでくれば、手首に切り傷を負っても不思議ではない。
受け取っておいて損はないだろう。
「ありがとうございます」
「……晴れてる日に来てくれたら、その時は……一緒に走ろうか」




