62.劣化と消耗は時に
「エルマ、1位とのタイム差を教えてほしい」
俺はバックストレートを5位で走っていた。
前の4台のうち、2台は事故。1台は俺の目の前で事故に巻き込まれた。
レースは残る1台と俺の一騎打ちになる。
『えーっと……4.5秒かな』
「了解。ありがとう」
シケインで停まっている3台にバックミラーから目を向け、再びZは前に走り出す。
こんなところで立ち往生している暇なんて俺にはない。
登りセクションに配置されているコーナーをなめらかに曲がっていき、外から助走をつけて最終コーナーを曲がる。
待ち構えているのは1.5kmにも及ぶ超ロングストレート。
国内屈指の高速サーキットであるルガー・スピードウェイならではの名物だ。
アクセルを踏め――!
Zが出せるすべてのパワーを、このストレートで解放する。
このサーキットに存在するすべてのコーナーを俺は、メインストレートでより速いスピードを出すために走ってきたと言っても過言ではない。
まるで強烈な磁石に引き寄せられたかのように、Zはとどまることなく前へ前へと加速していく。
さあ、2周目。
視界の最奥でかすかに光ったのは赤いブレーキランプだ。
言うまでもない、1位を走っている――車種は51型シノレか。
31型、41型と続くシノレの系譜をしっかり受け継いだ、最終モデルの51型。
低価格スポーツカーの代表格だ。
にしても、一体どんなチューニングを……?
ターボ搭載のシノレSpec-Rですら、せいぜい250馬力ってところだろう。
レギュレーションギリギリの500馬力だとして、約2倍――――
なかなか手強そうだ。
とっくに1コーナーを抜けたシノレに続き、俺も1コーナーに差し掛かる。
目印はない。自分の感覚だけを頼ってブレーキングポイントを探し当てる。
今だ。
ドン! と音がなりそうな勢いでブレーキペダルを強く蹴りこむ。
「……完璧」
進入スピードとコーナーまでの距離が寸分の狂いもなく釣り合い、一気にシノレとの差が縮まったように思えた。
インの縁石にタイヤ側面をそっと触れさせ、最短距離と最大半径を高いバランスで両立させたコーナリング。
そしてまた、加速。
『今のでコンマ2秒も詰めたよ!』
「よし、行ける……!」
さあ、勝負は始まったばかりだ。
*
『ファイナルラップ! 集中切らさないで!』
「分かってる!」
最後の周に突入したホームストレート、俺はずっと目指していた場所――――シノレの真横に並んでいる。
ここまで来たんだ。
遠くに見えるブレーキランプを必死になって何周も何周も追い続け、このスピード域でクラッシュのリスクと常に隣り合わせのまま、たったの1秒も気を抜かずに走ってきた。
逃がしはしない。
絶対に。
1コーナー、もう横の様子を伺うのはお終いだ。
前だけ見て進入する。
「――――今だ!」
スタート時と比べて明らかに劣化しているタイヤは、それでもなお与えられた使命を全うしようと悲鳴を上げながら減速していく。
インは取った、あとはクロスラインさえ押さえれば――――
「ん……!?」
車が、停まらない……!
さっきまで耐えていたタイヤが急激に劣化するはずがない。
俺は足にもう一度力を込める――――ブレーキペダルが、わずかに奥へと滑った。
「踏み切れてなかった……?」
認めたくはないが、認めざるを得ない。
違和感の原因は車じゃなく、俺のミスだ。
『大丈夫? どこか問題?』
無線が入る。
「……いや、なんでもない」
俺の集中力にも限界があることぐらい分かっている。
スタートしてから何分だ? その間ずっとすり減らしてきた精神は平気か?
――――駄目だ、こんなことを考えていても仕方がない。
俺にできることはただ一つ、目の前のシノレをバックミラーの彼方に消し去ることだけだ。
インががら空きとなった俺を、的確にクロスラインで抜き去ったシノレ。
幸いにもそこまで距離は話されていない。目測0.6秒差といったところだろう。
逃がすかよ。
2コーナー、インを狙う素振りを見せてわざとアウトから入る。
インから抜かれると思ったシノレが予想通りインを塞いできた。
これは罠だ。
アウトから進入できる俺の方がスピードが乗り、その先の緩やかな3コーナーで速度が伸びる。
3コーナー、アウトから――――抜けなかった。
俺の思惑を見通されてしまったのか、中途半端なラインで旋回しているシノレに俺は手も足も出ない。
そればかりか無駄な減速を強いられてしまい、4コーナーへのアプローチが遅れた。
「離され……てる?」
駄目だ、考えるな!
ここまで来たんだ。1位まであと1秒もない。
負けることを考えた時点で、その勝負に勝つ方法はない。
バックストレート。
下り坂とスリップストリームが相まって、俺のZはジェットコースターのようにシケインを目指す。
シケインで刺すか? ――――まだだ、距離が足りない!
闇雲にインを狙わず、落ち着いてシノレの後ろから差を詰める。
この後の登りセクションで決めてやる……!
やたらとホイールスピンしたがるリアタイヤを抑え付け、登り坂を最小限の減速で曲がっていく。
距離がどんどん縮まる。
目測0.25秒――――
そしてついに最終コーナーが俺ともう一台を迎える。
ここに来て俺が選べる選択肢は二つだ。
最終コーナーのインに飛び込んで追い抜き、メインストレートで抑えるか。
最終コーナーで大きく助走をつけ、メインストレートで抜き去るか。
前車を取ったとすれば、初めのうちはスーパーチャージャーの加速力でシノレを離せるだろう。
だが相手はターボ搭載……高回転の伸びで抜き返されるオチが見える。
ならば後者。
スーパーチャージャーが助走でパワーを発揮し、苦手な高回転はスリップストリームで補えばいい――――
決まりだ。
俺はインに飛び込むフェイントをかけて大きくアウトに振り、わざと距離を長く走って助走をつけた。
一瞬シノレとの差が開くが、すぐに縮まっていく。
「もっと……もっと伸びろ!」
スリップストリームに入った。
空気抵抗が前を走るシノレに遮られ、Zの最高速が一段と上がる。
――――だがシノレに近づけない。
手が届きそうな距離のシノレに、どうしても近づけない……!
「もっと伸びろぉぉぉぉ!!」
近づけない……!!
スピードが伸びない。
エンジンの回転が伸びない。
ヴォォァァアアアアアアアアァァァン!!!! (にゃーーー!!)
右足が攣りそうなほどアクセルを強く踏み込んでいる。
「……もっと……伸びろぉぉぉぉ!!!」
ヴォォァァァアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!
その瞬間、まるでずっとエンジンに引っかかっていた何かが取れたように――――あるいは、エンジンを縛り付けていた鎖が消えて無くなったように。
スムーズに回るようになった。
「う…………ぐっ……!」
心臓が痛い。
俺はスリップストリームから抜け出て、シノレの真横に並ぶ。
「……あぁっ…………う……」
肺が痛い。
体の中身が締め付けられるように痛い。
息ができない。
痛い……痛い、痛い、痛い痛い……!
「……んぐっ……いっ……ううぅ――――――――!!!!」
かつてないほどの痛みに悶える俺と対照的に、なぜかZは加速し続けている。
そうして永遠ともいえる数秒が経ち――――
チェッカーフラッグが振られた。




