61.そして戦争は始まる
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いよいよ始まる、クラス3全国選手権・第1戦。
だいたい決勝スタート1分前といったところだろうか。
『――――で――、――――か?』
エンジン音に紛れて、無線から雑音が聞こえる。
「電波が悪いな……」
『ならこれでどうだ? 調整した』
「あ、聞こえる」
おっちゃんの声が明瞭に話しかけた。
今日はレース当日、わざわざ店を休みにして来てくれている。
『お前さんなら大丈夫だとは思うが、油断するなよ』
「分かってる。開幕戦からリタイヤなんて勘弁だし」
『レイー! 頑張ってねー!』
「ありがとう」
今、最後尾の車がグリッドについたようだ。
スタートシグナル左端の赤いランプが1つ点灯した。
2つ……3つ……
視界が急激に狭くなったような錯覚を覚える。
両肩、腰、膝、足の裏から爪の先まで俺は体をZに預け、目の前のシグナルだけを睨み続けた。
4つ……
エンジンを吹かして吹かして、車内になだれ込むサウンドが気分を高揚させる。
5つすべてのランプが点灯し――――
――――わずかな時間をおいて、消えた。
ドン! と音がしそうなぐらい瞬発的にクラッチを繋ぎ、アクセル全開。
急激に与えられたエンジンパワーを受け止めきれず、タイヤはスキール音を鳴らしながら地面を蹴り飛ばした。
後ろから何かとてつもない力で押されたように、あるいは前から説明のつかない力で引っ張られたように。
Zの爆発的な加速力が俺の背中をシートに押さえつけた。
ヴォォァァァアアアァァァン!!!!! (キュルルルルルルルル!!)
長いメインストレートに並んでいた30台の猛獣たち。
檻を開けられた今、彼らは縦横無尽に入り乱れて我先にと1コーナーを目指している。
俺の前にいるのは8台。
15周もあるレースならその全てを後方へ置き去りにすることも難しくないだろう。
やっとホイールスピンが収まったころ、2速にシフトアップして俺は1コーナーに目を向けた。
スタートラインから1コーナーまでのわずかな距離で、俺はすでに覚悟を決めていた。
1周目の1コーナー、これ以上の戦場がいったいどこに存在する?
抜きつ抜かれつ――そんな生易しい言葉では到底表せない争いが、そこで繰り広げられる。
減速して進入……わずかにインが開いたのを、俺は見逃さなかった。
「行ける!」
ブレーキを一瞬緩め、開いたスペースに車体をねじ込んでいく。
一気に3台ぐらい抜いたか……?
前の方では軽い接触があったようで、2台ばかりが姿勢を崩している。
だがそう上手くはいかない。
咄嗟にインへ飛び込んだ代償と言うべきか、Zはスピードが乗りすぎていて大きく外へ膨らんでしまった。
幸いにもコースアウトは免れたが、1台に抜き返されてしまう。
「次で抜き返す……」
1コーナーのアウト側は2コーナーのイン側。
予想外のラインにも狼狽せず、俺はアクセルを踏み続ける。
『なかなか良いスタートじゃねえの』
「喜ぶのはまだ早いよ」
道幅を広く使って2コーナーのインを刺す。
前から1、2、3……現在6位か。この周でもう2台は抜きたい。
後ろから攻める車を抑えながら、右にグルーっと大きく円を描く3コーナーへ入る。
ここは外に膨らんで助走をつけるのが最速だが、今回ばかりは例外だ。
律儀に最速ラインを通ろうとアウトを走る何台かの車を、俺はインから小さく回って抜いた。
現在4位。
順位を上げたはいいもののやはりスピードは乗らず、アウトから回った車に4コーナーで抜き返された。
5位。
バックストレート、なだらかに続く下り坂だ。
前車の真後ろにピッタリついて、空気抵抗を減らす“スリップストリーム”。
ここみたいな高速サーキットでは必須のテクニックだ。
後ろから右に車一台分振って、急減速を強いられるこの先のシケインで抜こうと狙う。
車を横に並べて視界を前に――――
「……やっちゃったな」
――――俺の目が捉えたのは、シケインを斜めに塞いで停まっている2台の事故車。
かなり強い接触があったのだろう、ボディーが痛ましくへこんでいる。
1位の車と3位の車だ。
さっきまで2位を走っていた車は運よく巻き込まれなかったようで、集団を抜け出て登りセクションを走っている。
混沌としている視界に、黄色がちらつく。
マーシャルスタッフが振っている黄旗だ。
それが意味するのは『追い抜き禁止区間』、つまり今アクシデントが起こったシケインでは安全走行の義務が課せられる。
『イエローフラッグだよ、下がって!』
「分かってる」
これを無視して前の車を抜かしたら、めでたくペナルティーを受けることになってしまう。
せっかく横に並びかけた俺だったが、泣く泣く道を譲るしかない。
一瞬だけアクセルを緩め、また真後ろに寄り付いた。
危うく抜かさないように、かつ抜こうとすればいつでも抜けるように。絶妙な距離を保ちつつ、減速してシケインへ進入していく。
視界が開けないまま旋回――――
ドゴォン!!
「なっ……!?」
さっきまで真後ろを走っていたはずだったが、気付けば向きが180°変わってお互いのヘッドライト同士が睨み合っている。
前の車がしくじって、事故車のうちの一台に引っかかったのだろう。
悠長に考えている場合ではない、このままでは俺も――――!
左手がとっさにサイドブレーキを掴む。
普通は駐車でしか使わない、足のブレーキとは違うもう一つのブレーキ。
迷わずレバーを引く。
今の今まで回転していたリアタイヤが一瞬にして静止した。
回り続けるフロントタイヤに引っ張られ、リアが横に滑って挙動が乱れる。
そうして開いた事故車とZのわずかな隙間を、吸い込まれるようにしてコントロールを失った前車が通り抜けていった。
間一髪で衝突を免れ、俺はアクセルを全開にしてスピンしかけている方向にハンドルを切った。
体が持っていかれそうな慣性を感じる。
Zはスピン……しなかった。
ぶつかりそうな車を避けつつ綺麗に一回転して、再び前に加速する。
――――Zは無傷でシケインを脱出した。
「焦った……」
『危なかったねー、大丈夫?』
「どうにか」
サーキットは戦場だ。
ストレートを前後に並んで走る車はいつしか真横に並び、お互いの一歩も譲れぬ意地を次のコーナーの入り口に向かって投げつける。
コーナーへ同時に進入した全ての車が己の権利を主張し合い、場所を取り合い、俺はここにいるんだと叫び続ける。
そして戦場は時に――――戦士に対して牙を剥く。
「エルマ、1位とのタイム差を教えてほしい」




