50.許しを請うなんて
さて、お待ちかねのエンジン初始動だ。
リフトから降ろされたZの運転席にゆっくりと乗り込む。
「オイルはOK、電気系統も問題なしだ。頼むぜ、レイ」
おっちゃんの言葉を受け取り、ドアを閉める。
シートに深く座って深呼吸。
フェアレディZ。
腰や背中から伝わるガッチリとしたホールド感。両手から全てを預けられる、信頼のおけるステアリング。視認性とデザインを両立させた三連メーター。
何も変わらない。
違うのはただ、フロントガラス越しに見える景色だけだ。
そんなことはどうだっていい。
Zさえいれば。
ブレーキとクラッチを同時に踏みながら、左手の指をそっとエンジンスイッチに被せた。
ゆっくり、確実に、スイッチを押す――――
っ!?
その瞬間、強烈な頭痛が俺を襲った。
一瞬の痛みと脳を揺さぶられたような衝撃に思わず目を瞑る。
背中からシートの感覚がなくなっていく……
気付くとまわりは真っ白で、目の前に誰かが立っていた。
「誰……?」
顔が見えない。
白い光に霞んで、煙がかかっているように。
目の前の誰かは、俺を責めるような表情だった。
なぜそう感じるのかは分からない。
顔も表情も白く塗りつぶされたように、見えない。
だが、俺を責めているのは分かる。
俺に対して向けられている表情は――怒り、憎しみ、嫌悪……といったところだ。
「俺が何かしたか……?」
その言葉が逆鱗に触れたらしく、俺はそこを追い出されてしまった。
「――――――だ。頼むぜ、レイ」
おっちゃんの声で目を開ける。
気付けばそこは、Zの車内だった。
どういうことだ?
さっきのは何だったんだ?
ブレーキとクラッチを踏んで、エンジンスイッチをもう一度押す。
うっ……!
やはり頭痛が襲う。
まるで頭蓋骨全域にまんべんなくヒビを入れられたような。
「――――――だ。頼むぜ、レイ」
何が起こっているのか見当もつかない。
不安と恐怖で心臓が激しく脈打っているのが分かる。
何がいけないんだ?
Zのエンジンに問題はない。
オーバーホールしたし、オイルも電装系も問題ないらしい。
間違っているのは俺の方か?
もう一度スイッチを押す。
「――――――だ。頼むぜ、レイ」
痛みと衝撃で頭が壊れそうだ。
いったん外に出て、エンジンを――
「――――――だ。頼むぜ、レイ」
今度は痛みがなかったが、車内に引き戻されてしまった。
スイッチのほかにドアハンドルもアウトらしい。
エンジンは何故かからない?
車の方に問題がないとしたら、やはり俺がいけないということになる。
俺だからいけないのか?
駄目だ、もう一度。
スイッチを押す。
「――――――だ。頼むぜ、レイ」
くっ……ああああぁぁ!!
もうどうにもならない頭痛に悶えながら、必死に考える。
俺の何がいけなかった?
俺が何のミスをした?
痛みと混乱で頭の中がグッチャグチャになりそうだ。
俺が……
俺が――Zを一度、殺してしまったからか……?
そうだよな。
Zは俺のせいで事故ったんだ。
俺が一時の気の迷いでターボなんかつけたから。
制御できるはずがなかったから。
「痛かったよな……」
悪いのは俺なんだ。
俺がZをこんな目に遭わせておいて、何をのうのうと我が物顔で。
最低だ。
絶対に忘れるはずがなかった罪悪感。
今さら許しを請おうなんて馬鹿げている。
それでも。
「……ごめん。もう二度と同じ過ちは繰り返さない、だから」
初心を忘れないと誓ったはずなのに。
気付かないうちに無理させてしまっていた。
もう俺は間違えない。
だから。
「もう一度、俺を乗せてくれないか……?」
厚かましい、図々しい。
そんなことは分かっている。
オーナー失格だ。
だが、せめてもの気持ちを伝えたい。
「俺にはZしかいないんだ。頼む」
俺を幸せにしてくれるのはZしかいない。
他の何があっても満たされることはない幸福感を与えてくれる。
Zに乗っている時が何よりも大切な瞬間。
こんなどうしようもない乗り手を、どうか許してほしい。
もう二度と、過ちは繰り返さない。
心に刻み付ける。
絶対に。
「必ず乗りこなしてみせる、フェアレディZ」
シュイィィンキュッキュッキュッ、ブォォォオオオオオオオォォォン!!!
心臓の底から揺るがすような美しい音が響く。
かかった。
「……ありがとう」
遠く離れていた意識が一気に現実へ引き戻され、フロントガラス越しにおっちゃんが喜んでいるのが見えた。
「やったな! 一発始動だ!」
エルマもはしゃいでいる。
「いい音~!」
何はともあれ、エンジンがかかったのは大きな進歩だ。
残念ながら今年のエントリーには間に合わなかったが、焦る必要はない。
むしろZを完全に乗りこなしてから出場するほうが安心してレースできる。
来年の開幕戦までに、どこまでZと走れるかが勝負だ。
時間はたっぷりある。
不意におっちゃんがニヤッと笑ってこう言った。
「よし、明日はお前たちに休みをやろう」
「えっ?」「んん?」
俺もエルマも首をかしげる。
「レイはZの慣らし運転が必要だろう。せっかくだしエルマを連れて、どっかドライブでもしてきたらどうだ」
あぁー、なるほど。
Zのエンジンを完璧な状態にするためには、ここから徐々に負荷をかけていく必要がある。
丸一日あれば慣らし運転を終えることができるはずだ。
「俺は嬉しいけど、エルマは?」
「私も行きたい!」
即答。
「じゃあ、そういうことだな。今日はもう上がりでいいぞ」
かくして、俺とエルマのドライブが(半ば強制的に)決まった。




