130.スクランブル
ちょうど夜明けあたりに、仮眠から目が覚めた。
頭の中がすっきりした気がする。思考が整理されて、寝る前のアイディアがしっかり形になっている。
「よし……!」
私はまたECUの調整を始める。朝になったらまずシャーシダイナモでテストして、レイと試走に行こう。それまでにこれを完成させなきゃ。
この車に乗ってレースをするのは他の誰でもないレイだ。レイとZの距離が今まで以上にぎゅっと近付くような、そんな制御がいい。パワーの伸び、トルクの出方、ターボのフィーリング――全部がレイとぴったり合うように。
もっと、Zとひとつになって走れるように。
「……?」
ふと、リフトに上げられたZから物音が聞こえたような気がした。
エンジンどころかアクセサリーも入れてないのに。何の音?
中に、誰かいるの?
頭上からまた音が聞こえる。車内だ。見上げた正面の運転席のドアが開く。
スニーカーを履いた足がぶらんと放り出される。そしてそのまま――――――
「危ない!!」
――――――空を踏もうとして、リフトから真下に落下した。
宙を舞うレイをガレージの床は受け止めきれず、真っ先に着地した靴の底がつるっと滑る。
姿勢を崩した方向で待っていたのは半開きのシャッターだった。
衝撃音がガレージの中に反響する。
「レイ!大丈夫!?」
**********************
*
*
痛い。
目が覚めて最初に俺が感じたのは痛覚だった。
寝ている間に頭でも打ったのだろうか。いや、自分の部屋ならともかくZの中でそれはないだろう。
Z――――――フェアレディZ!?
慌てて目を開ける。
俺はスクーデリア・ヴェントのガレージの客席用ソファーに横たわっていた。
「よかった……目が覚めた?」
エルマの声がした。
「大丈夫?まだ痛むよね?」
痛いかどうかでいえばかなり痛いのに、なぜか知らないが、気分は晴れている。
不思議なほど良い気分だ。
「ちょっと、痛いかな。問題はない」
「そう……?よかった」
それよりも俺には気になることがあった。
ぼやける視界の一番奥でリフトに上げられている、あのシルバーのレーシングカー。
「あの……車」
エルマは俺が目を細めた方向に振り返る。
「あれ?」
そう、あの車。他には何も考えられない。それだけ。
「――フェアレディZ、だろ?」
俺は身体を起こして立ち、Zが乗せられている5番リフトにゆっくりと近付いた。
ボタンを押してリフトを下げ、Zを地面に着地させる。
また会えた。
シルバーに塗装されたボディーを、全身に纏ったカーボン製のエアロパーツが黒く侵食しているようだ。特に地面に近いフロントバンパーやサイドスカート。この辺りは気流を抑えつけるために複雑な形状を成している。
ホイールの隙間から見える大径のカーボンセラミックブレーキもまた俺を刺激する。
後ろに回り込んで見ると、リアウィングはダックテールに戻っていた。やっぱりこれがZには一番似合う。
それとディフューザーの――いや、もういいか。
早く乗りたい。このZと走りたい。
「行こう、エルマ。走ろう!」
「……うん!」
そう、これだ。これが欲しかった。
ギアが噛み合う。クラッチはいらない。トラクションに抱きしめられる。
「加速が止まらない……!」
すぐに次のギアに入る。途切れない。速い。
スロットルとターボが直結しているような感覚だ。ラグを感じない。一体どうなっているのだろうか。
緩やかなカーブに向けてアクセルを緩める。そしてまた踏む。
「気持ちいいよ」
助手席で手元のモニターをチェックしているエルマが、顔を上げて俺に微笑んだ。
「問題なさそうだね。ちょっといじってみようか?」
「え、今?」
ステアリングの真下から伸びているケーブルがモニターに繋がっている。走行中にリアルタイムでセッティングを変えられるということか。
試してみない手はない。
「……やってみて」
「いい?行くよ!」
その瞬間、パワーが――――――爆発した。
エンジンが空気を吸い込み、圧縮している音がはっきり耳に届く。タービンの回転が伝わってくる。Zが震え、前に進もうと暴れる。
人智を超えた力で全身が揺さぶられる。手が付けられない――――――!
そろそろアクセルを緩めようかと迷った頃、ようやく元に戻った。
「な……何を、どうしたの?」
「スクランブルブーストだよ」
「ああ……」
スーパーチャージャーでは使えなかった奥の手だ。ターボの過給圧を一時的に上げて、マージンと引き換えにより強大な馬力を生む切り札。
例えば、1周だけプッシュする予選では大きなアドバンテージになるだろう。レースでオーバーテイクを仕掛ける時にも使える。
「昨日セッティングを組んでみたの。すごいでしょ!」
「確かにこれをストレートでぶっ放せたら、戦術が広がるな」
にしてもあの化け物のようなパワーを引き出したエンジニアがこんな屈託のない笑顔をしているなんて、つくづく恐ろしい。
「もうちょっと調整したら、レイがいつでも使えるようにボタン着けとくからね」
「ありがとう。少なくとも公道では絶対に押さないけど」
いくら速度制限がないハイウェイだとしても、これは手に余る。サーキット――それも長いストレートがある高速サーキット以外では封印しよう。
「じゃあ次はこれを――」
「待って待って!」
*
すやすや眠っているエルマの横で、音を立てないようにそっとノートのページを捲る。
いつも通り、中身は数字の羅列と大量の計算跡、それと手描きの図でびっしり埋め尽くされている。エルマの図は相変わらず抽象的すぎて、どういう意味で描かれているのかよく分からない。
Zの整備記録が、何ページも何ページも続いていた。余白に時々メモも書き込まれていた。
『フィーリング』
『レスポンス?』
『一体感』
『ドライバー=レイ』
『トルク ここがなんか変』
『??』
『←レイに聞いておく』
捲り続けるうちに、一番新しいページまで辿り着いた。
俺は最後まで目を通してからノートを閉じて、エルマの枕元に戻した。
『セッティング完了』
『レイの記憶が戻ってよかった!』




