123.オールインアウト
『ウラクのペースが上がってるよ。4秒後ろ!』
「嘘だろ……?」
ウラクはレース序盤、早々にピットストップした。俺の15秒か20秒ぐらい後方でコースに復帰したはずだ。
もちろん、ペースの差があるのは理解している。こっちは燃料が減って軽くなるまでこのタイヤを持たせるために、コーナーで無理しないよう心がけながらずっと走ってきた。
それにしても、だ。
ここまで早く上がってくるなんて。
「このままのペースで良いんだよな、俺は」
『うん。乗せられちゃダメだよ』
エルマがそう言うなら大丈夫だろう。俺たちには俺たちが採った作戦のアドバンテージがある。ただ、今はまだそれが発揮されるシーンではないというだけの話だ。
ここであいつのペースに惑わされて、戦略をかき乱されてしまっては元も子もない。
追いついてみろよ。
*
「もう追いついて来たのか……!」
背後に迫るV6ツインターボの音と、バックミラーの中の黒い影。速い。常軌を逸したストレートスピードだ。どうやって立ち向かえばいい――!?
気付いた時にはイライザは既にスリップストリームから抜け出し、俺の右横に並んでいた。
ブレーキング。タイヤを労わりながら、なるべく優しく。
余裕を持って減速するZの隣を、イライザがすっ飛んでいった。
しかしその勢いは一瞬にして止められる。それでもまだ残ったままのスピードを引き摺りながら、強引にコーナーへ進入していくのが見える。
「馬鹿げてる……」
予選のアタックラップと遜色ない走りだ。極限までプッシュしているのが目に見えて分かる。ピットストップ一回分のタイムロスを帳消しにするために、あいつはずっと限界領域で走り続けている。
だがいくらウラクと言えども立ち上がりは粗削りだった。リアが暴れて、片輪は縁石の外まではみ出し――いや、違う。
驚くほどの正確さだ。
あいつは、ダウンフォースを削り落とされて暴力性が剝き出しになったあの不安定なイライザを、ほぼ完璧に制御してコントロール下に置いている。
俺にはあんな真似はできない。
たったの1周ですら満足に走れはしないだろう。なのに、あいつは。あいつは――――――!
『ついていこうとしなくていいよ、レイ!目標デルタに合わせて!』
「いや……使えるもんは使わせてもらう」
左の中速コーナーを抜けて、俺はアクセルを少し早めに踏んだ。パワーが立ち上がる。
お前の為にわざわざタイヤの寿命は減らさない。スリップストリームだけでどこまで得できるか試させてもらおう。
イライザの真後ろにずっとくっついていれば、Zが受ける空気抵抗は減り、俺とお前のストレートスピードの差が縮まる。
俺を引き離したいか?なら、もっとタイヤを酷使してコーナーで差を付ける事だな。
必死でイライザの影に隠れながら、アクセルを踏む。
それでも差はじわじわと広がっていった。1秒も先に行かれたら、もう潮時だろう。
スピードは十分に稼がせてもらった。
これ以上状況が変わるのを待っていても仕方がない。もうガソリンタンクはだいぶ軽くなってきている。俺はこのレース中最初で最後のピットストップを終えて、コースへと復帰した。
ようやく俺たちのターンだ。ここからはひたすら飛ばすのみ。誰よりも速く。
『残り5周。……ウラクも入るはずだから安心してね』
「ああ、あのタイヤじゃ走り切るのはどうあがいても無理だ。どうせ次の周に入るだろうし、条件はほぼイコールだな」
ウラクがもう一度ピットに入る前にどれだけタイムを稼げるか。ウラクがピットから出てきた後、どれだけ有利に戦えるか。全力で勝負してやる。
気持ちを入れ直してアクセルを踏むと、フレッシュなリアタイヤがわずかに反抗の素振りを見せた。
まだ熱がきっちり入っていなかったらしい。
「路面が冷えてきたのか……?」
確かに太陽は分厚い雲の向こう側だ。あたりには日向も日陰もなく、景色がどんよりとした灰色で覆われていることに今更のように気付く。
フロントガラスに、小さな透明の雫がぶつかった。
――――――雨だ。
山奥の天気は変わりやすい。
ジルペインのゲメント峠でも何度かゲリラ豪雨に降られた。ここだって同じことだ。雨が降り始めた。何か手を考えなければ。
『あー、レイ?……ピットの方は雨粒が降り始めてるんだけど、そっちも?』
「降ってるよ。ああ、クソッ」
幸い、ワイパーも必要ない程度の雨量だ。
残り5周。この調子で雨雲が過ぎ去ってくれるなら、このまま最後まで走り切れる。
『本当にごめんね。まさかこんな時に降るなんて……』
「いや、エルマのせいじゃないって」
だがもし雨脚が強まれば、ドライ路面専用のスリックタイヤではどうしようもなくなる。そうなったらピットに入って、接地面に排水用の溝が刻まれたレインタイヤに交換しなければならない。
つい1周前にピットストップで新しいスリックタイヤに履き替えたばかりの俺たちにとっては大損だ。
『レインタイヤの準備もできてるけど、コールは?』
コールは俺に委ねられていた。今の路面はスリックのままで凌げる。
「ステイアウト。……賭けるしかない」
雨が強くなるなら、ここでピットインする方が正解。そうでなければ、入らないのが正解。
ギャンブルだ。どの道、ピットインしたらここまでの作戦は全て裏目に出る。勝算はない。
俺はピットレーンに進まず、そのまま最終コーナーを回った。ホームストレートに向けて加速する。
「ちっ……!」
リアが流れかける。黒い影が再び視界に姿を現した。
イライザ350。しかし1周前に見た時とは違って、今回はレインタイヤを履いて俺の前を走っている。
ウラクは二回目のピットストップで、レインタイヤに交換したようだった。
なるほど。お前はそっちに賭けたんだな。
しかし、イライザの姿はすぐに見えなくなった。
いきなり離された訳でもないし、俺が抜いた訳でもない。
ただイライザのリアタイヤから巻き上げられた水しぶきによって、視界が阻まれただけだ。
強い雨がフロントガラスを叩いている。
何食わぬ顔をしてひたすらに上がっていくスピードに反し、両手からグリップはほとんど感じられない。
――――――ほとんど感じられないどころではない。
タイヤが浮いている。路面に接していない。水の膜の上に浮かんだまま、Zは弾丸のように加速している。
どしゃ降りの雨が、サーキットに大量の水を撒き散らしている。
ギャンブルは失敗だった。
次の周でピットインしよう。この状況でスリックで走るなんて正気の沙汰ではない。
300km/h近くまで安心して全開のままでいられるのもグリップがあってこそだ。
ホームストレートが終わり、ただでさえ先の見えないカスカータは雨と水しぶきで完全な虚空と化していた。
スピードの意味をようやく理解する。覚悟を決める間もない。
ステアリングを左に――――――
「――――――っ!」
――――――激しく揺さぶられる衝撃と、強い痛みを感じた。




