115.海を越え、限界を超えて
「……よし、もう一回行くぞ」
俺は再びエンジンをスタートさせ、Zと共にカノム市街地コースのピットレーンへ出た。
ここはオーバーテイクが難しい。予選の順位が決勝での有利不利にそのまま直結する場所だ。
今のままのタイムではせいぜい10位かそこらだろう。もう一度タイムアタックを試みる必要がある。
『あんまり時間はないよ。トラフィックに気を付けて!』
エルマの言う通り、トラフィックが何よりの課題だろう。せっかくタイムを出そうと全開で走っていても、目の前のマシンが邪魔になればその時点でラップは台無しになってしまう。残り少ない時間の中で、最適な位置から最高のラップを作り上げなければならない。
「ああ……見えないな。前はどう?次の周からアタック入れそう?」
『そうだね、ライオンフィッシュまではクリアかな。今なら行けるかも』
「ライオンフィッシュ……?」
どこだっけ。単純に1コーナー、2コーナーではなく一つ一つのコーナーにユニークな名前が付いているのはカノムのような伝統あるコースにありがちなのだが、いまいちピンと来ない。最終コーナーだっけ?
『あの急な上り坂のことだよ。……アタック頑張って』
と言って、エルマは無線を切った。なんか呆れられたような気がしないでもないが、ひとまずは目の前のラップに集中しよう。
例のライオンフィッシュを上りきって、右に小さく回る最終コーナー。ここから短いホームストレートだ。このコースの貴重な全開区間その1。
コントロールラインを通過し、ラップタイム計測開始。
市街地コースのくせに高低差が高く、一周の始まりはまるでジェットコースターに乗り込んだような気分になる。
あっという間に最初の右コーナーだ。デーア・デル・マーレと名の付いた、直角コーナー。
脱出速度を重視して早めにパスし、ここから大きく坂を下っていく。
この坂がまた面倒で、ただ直線的に走るよりも路面の起伏を避けるようにわずかに左右に振った方がかえってタイムロスが少なくなるという話を聞いた。
まあ、そう言われてみればそんな気もするが。
坂を下り終えると、周りは宮殿のような高い建物に囲まれる。そこから速度を保ったまま、左、右と切り替える中速S字――左コーナーがパラッツォ、右コーナーがカステッロだ。先の先を見て曲がる。アクセルを緩める訳にはいかない。
そしてまたもや上り坂。マシンが跳ねる。しかしダウンフォースのおかげで挙動は乱れずに済む。まだまだ踏んでいける――!
次は右だ。名前は忘れた。ここはできるだけ突っ込んだ方が楽に回れる。
そしてすぐに左ヘアピン――かの有名なチェントタンタだ。ただのヘアピンではない。この信じられないほど窮屈な180°のターンを、ボトムスピードを落とさずにクリアするには途方もない精度での進入が要求される。
イン側の縁石にタイヤを少し触れさせて、奥が見えたらもう大丈夫。すぐに加速する。すぐにスーパーチャージャーで過給されたZのパワーが俺を引っ張る。レスポンスは最高だ。
また少し坂を上り、右、右とコーナーが続く。
回ったら――長い橋だ。まるで青い海の上に浮かんで走っているような景色が広がる。このコースの貴重な全開区間その2。
まだ橋が続く。
「エルマ――――――」
『良いラップだよ。集中』
加速しっぱなしのまま軽く右に曲がり、少しの上り坂。この辺りがおそらく最高地点だろう。まだアクセルは踏んだまま。
今だ。橋が終わったらすぐ起伏を越えつつフルブレーキング。シケインへと進入する。
右に振って、すぐ左に切り返す。道幅がまた少し狭くなる。
再び加速していく。スピードを乗せたまま、カクテルという左コーナーを曲がる。かつてここにバーがあったことが由来らしい。
若干の下り勾配がついた直線を走り抜ける。
この次は中速コーナーが連続するセクションになる。右、左と来て、また右。
ここは道の形の通りに走っている場合ではない。ガードレールの角と角を繋げるように、真っすぐアクセルを踏んでいく。
少しばかり息をついて、急な上り坂――ライオンフィッシュだ。そしてすぐさま右に回る最終コーナー。マシンの向きを変え終わってから、全開。
ホームストレートに戻ってきた。これでようやく1周だ。短いコースのはずなのに、異様なほど長く感じる。
「どう?」
『1分39秒942。暫定2位!』
悪くないラップだった。ミスもない。上々のタイムも出た。でも――――――
「もう1周だ」
まだこんなもんじゃない。限界を見つけるんだ。
そのまま2周目のアタックに入る。残り時間を考えると、これが最後のラップになる。
最初のデーア・デル・マーレはもっと奥まで行ける。だが脱出が遅れては無意味だ。
両足を捻りに捻り、左手でシフトを叩き込む。曲がったら加速だ。早く!
長い坂を下る。路面から伝えられる情報を逃すな。流れに沿うようにステアリングを右から左へ。
左コーナーのパラッツォ。起伏を越え――――――
――――――リアが流れる。
右じゃない、左だ。ここからは立て直せない。ブレーキを踏みつけて、細い路地のようなエスケープゾーンの中にどうにかマシンを放り込む。
長いスキール音と減速Gの後、Zは止まった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ガードレールには擦っていない。無事だ。ああ――ゾッとする。
ほんの5秒前までは限界領域で走っていたのに、今はまるで空間が静止したようだ。
ここで全てを失っていたらどうなっていただろうか。
「……ごめん」
時間切れだ。ピットに戻ろう。少なくとも俺にはさっきのタイムがある。
『大丈夫だよ。ゆっくり帰ってきてね。ただ……少し面倒ごとになるかも』
「面倒ごと……?」
Zにトラブルがなければいいのだが。




