113.水面下での契約
もしあそこでピットミスがなかったら、どうなっていたか。限界以上にプッシュする必要はなく、タイヤの状態にも気を配れたはずだ。ブリスターに見舞われることもなかっただろう。
――いや、それでも駄目だな。初めから2ストップと決めていたウラクなら怖いものなしだ。あそこで俺がいくらリードを築いていたとしても、あいつならプッシュして普通に追いつける。
そもそもレースペース自体で負けていたのが大きい。直線がどうにも伸びなくて、コーナーでタイヤを削りながら対抗するしかなかった。
エンジンに手を入れるべきか――――――?
「――――――ら、むこうも乗り気のはずだよ。……レイ?きいてる?」
シビくんに名前を呼ばれ、知らぬ間に閉じていた目を開ける。
「ああ、ごめん」
思えば、誰かが乗る車のリアシートに座って揺られるのは久々な気がする。
覚えている限りでは――たしかフィーノが帰省で持ってきた新型車に乗った時以来か。そういえばあの時もフェンリルだったな。
あれは2+2のスパイダーだったからお世辞にも快適とは言えなかったが、このフェンリル・プロイエットはスーパーカーに乗っていることを忘れさせる程の乗り心地だ。
むしろこれ以上室内を広く作ってしまうと、限界域で身体が吹っ飛んでしまうかもしれない。
「にしても不思議な車だよな……」
フェンリル・プロイエットは、シューティングブレークだ。
一級品の性能と質感を兼ね備えながら、ワゴンのような実用性を確保したクルマ。しかし、デザインは流麗な3ドア。スポーツワゴンの上位互換とも言えるだろう。
「ね、こんなにはやいのに、頭がこんがらがっちゃう」
隣のシビくんをわしゃわしゃと撫でながら、運転席とその横の空席を眺める。
あの助手席に座るべき人はいないのか。
ヘインズさんの秘書らしき人物は見かけたことがない。チーム代表兼監督という立場で請け負う仕事の量は、一人で捌くにはなかなか難しいものだと思うのだが、彼はそれすらも楽しみながらやっているように見える。
そして現に今も、自らの手で俺とシビくんを乗せた車を走らせている。
――俺は俺の仕事を、きっちりやらなければならない。
*
「お邪魔します……」
着いた目的地は、この国の首都パラトを通り越してさらに南に位置する近代都市・ルテーノのビル街にあった。
目の前に堂々と掲げられた「AMT」のロゴ。ここへ訪れた理由は――――――
「おや!皆さんがスクーデリア・ヴェントの……!お待ちしていましたよ!さあさあ!」
考える間もなく、スーツ姿の男性が俺たちを見るなりすぐに案内してくれた。
一体どこに連れていかれるのだろうか。
「こちらのエレベーターにお乗りください。上まですぐですよ!」
言われるがままにエレベーターに乗り、上へ上へと上がっていく。
本当にあっという間で最上階へ辿り着いたのだが――どうやら直通エレベーターのようだ。どれぐらいの高さにいるのかも分からない。
「さあ、どうぞ」
着いた先は――――――社長室か?広々とした空間に、大きなデスクと椅子、それと本棚にモニター。おそらくそうだろう。ヘインズさんと初めて話をした時のことを思い出す。
スーツ姿の男性はこちらに向き直り、改めて挨拶をした。
「スクーデリア・ヴェントの皆さん、初めまして。アクレイム・マジーア・テクノロジー株式会社へようこそ!CEOのローズ・アクレイムです!よろしくお願いします」
アクレイム・マジーア・テクノロジー株式会社――――通称AMT社。ベンチャーとして立ち上げられてから瞬く間に急成長を遂げ、今では街中でもしばしば名前を聞くほどの大きなテクノロジー企業だ。魔法機器を中心に、幅広い製品を開発・販売している。
そして、彼がそのAMT社の社長ということになるのか。
セットされた金髪。上品なスーツにネクタイ。なるほど。
俺たちのヘインズさんが柔らかく微笑んで口を開く。
「こうして顔を合わせるのは初めてですね。スクーデリア・ヴェント代表、ゼカリア・ヘインズです。よろしくお願いします」
「ドライバーのレイナーデ・ウィローです。よろしくお願いします」
――待って、顔を合わせるのは初めてなのか?てっきりもう大体の話は済んでいるのかと思っていた。
「あ、あと俺のマネージャーの……シビくんです」
当の本人は辺りをきょろきょろと見回しているばかりだ。慣れない空間に緊張しているのだろうが、彼も紹介しておかなければ。
「ヘインズさんとウィローさんですね。本当に、今日はこのような機会を頂けて光栄です!シビくんもありがとうございます」
え?その口ぶりからして、二人は――――――
「うわあああ!!本当に来たんだ!待ってたよ~!!」
声が聞こえた方を振り返る間もなく、目の前をクリーム色の犬が走り抜けていった。そして――
「よっ!」
――飛び上がって人の姿に変化し、そのままシビくんの胸に飛び込んでいった。
獣人の、女の子?
「おおっと、落ち着いて!お客さんが来ていますからね。あはは、すみません。この子は秘書のレタです」
アクレイムさんは女の子の頭を優しく撫でて、俺たちに紹介した。
秘書――とすると、うちのシビくんと同じようなポジションか。実際、二人は既に知り合いらしい。俺がここに来るまでに、一体何があったんだろう?
会議用と思わしき木目のテーブルを挟んで、向こう側にアクレイムさんとレタちゃん、こっち側には俺とヘインズさんとシビくんが座る形となった。
事の経緯を聞くと、どうやらこういうことらしい。
シビくんが散歩中に知り合った犬友達(獣人かそうでないかに関わらず、犬の友達は多いという)のうちの一人が、大のレース好きだったそうだ。それを知ってシビくんは得意げに俺やヴェントのことを話すと、知り合いの犬の子の飼い主がレーシングチームとスポンサー契約を結びたがっているという話を聞かされる。そしてシビくんはレタちゃんを紹介され、話をつけてきてくれた、と。
シビくんが本当にマネージャーしてる。
「でも、それだけでここまで話が進むことある……?」
俺の問いに対し、ヘインズさんが答えた。
「もちろん、それを伝えられてからはこの子たちを通して私とアクレイム氏で話し合ったよ。とはいえ大半は二人に進めてもらったけどね」
ああ――だから『顔を合わせるのは初めて』だったのか。
にしても本当に、こんな企業とスポンサー契約を結ぶことになるとは。まだ実感が湧かない。ヴェントに入った時もそうだが、背負うものが増えていくのは不思議な感覚だ。
「我々としても、一流のレーシングチームの力になれて嬉しい限りです!全力を尽くしてサポートしていきますよ!」
アクレイムさんは真っすぐ俺たちの目を見て言った。
「ありがとうございます。俺も……必ず期待に応えます」
レタちゃんが満足げに頷く。
「それじゃあ、契約のお祝いでプレゼントあげるね~!!」
そう言ってテーブルの上に置かれた白い箱には、“Mystica 054”の文字とAMTのロゴが薄く刻んであった。高性能の薄型魔法通信機――AMT社の看板商品だ。
「最新型のミスティカです!まだ発売前なんですが……ぜひどうぞ!宣伝のために、たくさん使って頂けると嬉しいです!」
なるほど。確かにこれから選手権に参戦し続ければメディアへの露出も増えていくだろう。Win-Winという訳だ。
「ありがとうございます……!大切に使います」
感謝して受け取るが、どうやらプレゼントはこれだけではないらしい。
「そして、もう一つは――――――」
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