112.沸騰は気付かぬうちに
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少し前に、地方のスポーツ紙のインタビューを受けた。
シーズン開幕直前だった。やはりスポットライトは今年デビューする新人に当てられていて、様々な角度からいろんな質問を受けた。記者の語り口は軽かったが、それでいて礼儀正しかったことを覚えている。
内容は公式テストを終えての心境とか、グリッド上で気になっているドライバーとか、当たり障りのない話題が多かった。
ただ、チームの話になったとき、俺はどこから湧いたのか分からない違和感に襲われた。
記者の口から出た言葉が、妙に引っかかった。
俺はその質問に、「スクーデリア・ヴェントのことを信用しています」とだけ答えた。
*アルジェントサーキット、決勝16周目*
『セクター1、2のペースが落ちてきてるよ。タイヤ、そろそろ厳しい?』
第2戦の舞台であるアルジェントサーキットは、まだ春だというのに異様な暑さの日差しに熱されていた。ウラクが12周目で早々にピットに入ったのも、タイヤに熱が入りすぎて予想以上に摩耗したためだろう。
「ああ、特に左のリアがもう残ってない。差は十分稼いだし、潮時だ」
そしてライバルが早くピットに入ったならば、こちらが選べる選択肢は二つ。
一つはタイミングを合わせてほぼ同時にピットインし、コース上でのバトルをお互い新しいタイヤで仕切り直す戦法。もう一つはコース上に留まり、相手がピットに入って順位を一時的に下げている間にこちらが飛ばしてタイムを稼いだ後ピットインする――――――いわゆるオーバーカットというやつだ。
『了解。じゃあ入って!』
後方との差はかなり余裕がある。これならウラクを突き放したままコースに復帰できるだろう。
俺は減速してスピードリミッターを起動し、ピットレーンに進入した。
『レイ、ごめん!やっぱり次の周で――』
「はぁ!?もう遅い、無理だ!」
反射的に声を上げる。ここからは芝生を突っ切らなければコースに復帰できないし、一度レーンに入った以上、白線を跨いだらペナルティーが下されてしまう。できることは何もない。
一体何が起きているんだ?
考えている間もなく、Zをガレージの前に停める。
クルーに囲まれた状態でジャッキアップされ、タイヤ交換が終わるのを待つこと数秒間。
長い。
ジャッキが下ろされない。駄目だ。1秒、2秒、コース上で詰めてきたタイムが浪費されていく。まるで閉まることのない蛇口のように、ロスを吐き出し続けている。
早く。早く。右足が震える。周りの音が遠のいていく。
苦痛とさえ思えるほどの長い時間が経った。
一瞬の浮遊感に、ようやく終わったと知らされる。すぐさま反射的にアクセルを踏み込んだ。
「何秒!?」
『……13.7秒』
冗談じゃない。一体いくつポジションを落としたんだ。
『本当にごめん!……ピットのタイミングがうまく伝わってなくて、それで――』
スピードリミッターを切って全開で加速する。攻める前に新品タイヤの感触を確かめておかなければ。
「話はレースの後だ。前との差を教えてほしい」
左に振ってから3コーナーに向かってフルブレーキング。グリップは良い。このタイヤでどこまで取り戻せるか。
『2.3秒先にウラク、トップとの差は29秒』
「わかった」
俺の方が4周分も新しいタイヤだ。すぐに追いついてみせる。そして、バックミラーの彼方に消し去ってやる。
そう思っていた。
だが、どこまで攻めても差が詰まらない。どうなっているんだ?
これ以上無茶をしたら危ない。ウラクだってタイヤを酷使しながら逃げているはずだ。路面はバーベキューの鉄板のように熱せられている。あのペースで周回を重ねていたら、いずれは――――――
24周目のバックストレートの先で、限界を迎えたようだった。ウラクのペースが落ちたのを、俺は見逃さなかった。
あそこまで飛ばしたら必ずバテるだろう。俺も俺でかなりタイヤを使ってしまったが、まだ余力は残っている。一度抜いたら、あとはタイヤのアドバンテージをゆっくり切り崩しつつ、最後まで抑えるだけでいい。
奥に構える大振りの中速右コーナー、そのイン側の縁石に狙いを定める。
相手が相手だけに一切の油断は許されない。ストレートエンドで横に並びかけ、意を決してブレーキングする――――――と、ポジションはあっけなく俺の手に転がり落ちた。
「えっ?」
よっぽどタイヤがズタボロになっているのか、ウラクの動きからは抵抗の意志の欠片も感じ取れなかった。にしてもあそこまで粘らないなんて、らしくないな。
とはいえ次のコーナーで反撃してこないとは限らない。安全な距離をとれるまで、バックミラーを注視する。
だが、その周の最終コーナー手前で、あの黒いイライザは視界から姿を消した。
インにもいない。アウトにもいない。――――――まさか。
「入った……?」
二回目のピットイン。あいつはタイヤ管理に失敗したのか?いや、違う。
最初からそのつもりでタイヤを2セット使い潰したんだ。
『入ったね。ウラクのタイヤ、中古じゃない……まずいよ』
「……嵌められた。逃げるぞ!」
俺のZは馬力で若干劣る分、イライザと比べてストレートが伸びにくい。コーナーでタイムを稼がなければ追いつかれる。そうなったらもう、このタイヤでは太刀打ちできないだろう。
ただでさえピット作業のミスでいくらか遅れをとっている。これ以上のロスは一切許容できない。
ペースを上げなければ。
俺が正常な判断力を失っていることに気付いたのは、Zにそれを教えられてからだった。
グリップがない。それまで確かに掴んでいたはずの接地感が、不自然にすっぽり抜け落ちている。
ついさっきまで良い感触だったのに。まだ寿命は残っているはずだ。
「なんだこれ……なんで……?」
コーナーでインに寄せられない。アウトに流れていく。
『大丈夫?急にグリップがなくなったなら、ブリスターかもね。いいよ、入ろう』
「そんな――」
ブリスター。それはタイヤの表面に現れる水ぶくれのようなものだ。表面温度の上昇によって内部まで熱が入りすぎてしまい、ゴムの気泡が破裂し、接地面積を失ってしまう。
限界を超えて攻めすぎた。そのツケが今、回ってきている。
どうしようもない。このタイヤはもう使い物にならないのだから。
「――ごめん、入る。……クソッ」
完全に想定外だった。リスクは自分で分かっていたつもりなのに。ただ摩耗させてしまうだけならまだしも、ブリスターが発生してしまったら予定外のピットストップは免れない。
最悪だ。
二回目のピットストップを終えてからフィニッシュまでのことは、よく覚えていない。
結局最後まで追いつけず、ウラクよりも後方でチェッカーフラッグを受けた。
あいつは2ストップの戦略を成功させた。俺は1ストップで対抗することに失敗した。
それだけのはずだ。
でも、それだけの差とは思えなかった。




