109.12気筒のシンデレラ
「んん……」
どうにも慣れないタキシードの首元を何度も直しながら、俺はいつものガレージに向かって歩いていた。
まだこの時期は日が短く、うっすらと涼しい風が薄暮の暗がりに紛れて石畳の上をすり抜ける。
いろいろと緊張することがいくつかある。
まずは車だ。
フェンリル主催のパーティーにフェアレディZで向かうのは流石に忍びないので、ヘインズさんからフェンリルを借りることになった。そういえばあの人、車何台持っているんだろう?
まあそれはともかくとして、今までZぐらいしか乗ってこなかった俺にとっては少し不安だ。Zにはクラス2のチューンが施されているとはいえ、フェンリルの車はそれを軽く上回るスペックのエンジンを積んでいる。
果たして俺に乗りこなせるか。
そしてもう一つは――――――
考えているうちに着いてしまった。
スクーデリア・ヴェントの敷地内の駐車場に、存在感を放ちながら鎮座しているただ一台のスーパーカー。
純白のフェンリルF-650バンディエラが、その運転席に座る乗り手を待ちわびていた。
「え……まさか、これ……?」
ヴェントがレースでよく使っているのはF-398がベースのマシンだから、てっきりそれに乗るんだとばかり思っていたが――――――正直言って、これは俺の手に余る車かもしれない。
F-650バンディエラは、フェンリルが誇る最速のスーパーカーだ。
エンジンは車名の通り6500ccのV12。フェアレディZが3700ccのV6だから、単純に考えて1.75倍の排気量になる。
しかもZはスーパーチャージャーという過給機によって530馬力を発揮するが、このフェンリルのエンジンは過給機に頼らず自然吸気で800馬力に到達する。800馬力って何なんだ一体。無理だ、これは。
調子に乗って全開走行でもしたら、こいつは迷いなく俺を葬るだろう。
さてそんな猛獣の隣で、俺はパートナーを待っている。
――――――というと堅苦しいかもしれないが、パーティーに出席するとなれば誰か特別な人を一人誘うのがマナーなのだ。幸いというべきか、俺に悩む余地はなかった。
しばらくして、暗闇に包まれた路地の向こう側にうっすら人影が見えた。
最初にその姿が目に映ったとき、俺はそれが自分の横にいるべき人なのだと気付かなかった。
それほどまでに、眩しすぎた。
「……エルマ」
美しさのあまりにもらすため息に混じって名前を呼ぶ。彼女はいつの間にか、手を伸ばせば触れられる距離まで来ていた。
「えへへ……どうかな、これ……」
上品なカクテルドレスに身を包んだエルマは、どこか照れたような表情のままくるっと一回転した。
髪はいつものロングとは打って変わって、シャークフィンのように留められている。
それはまるで――――――
――――――やめよう。
この美麗について完璧に表現することのできる言葉は、どこをどう探しても見つからない。
俺はただただその光景に、心を奪われていた。
「……綺麗だよ」
さて、そろそろ出発しよう。
俺はF-650の助手席のドアを開け、エルマをエスコートした。
「大丈夫?乗りづらくない?」
「ん……意外と余裕ある、かも」
正直言ってフェンリル最速のフラグシップモデルに室内の広さは期待していないが、実際どうなのか。
運転席のドアを開けてカーボン製のサイドシルを跨ぎ、シートに腰を下ろすと――――――なるほど。
確かに思ったよりはゆったりしている。
「本当だ」
てっきり窮屈でスパルタンなコックピットになっているのかと思っていたが、かなり快適だ。
しかしその反面、シートのホールド感が足りないようにも思える。サーキットなどでの限界走行時はシートに身体を密着させて、全身でGやフィーリングを感じ取ることが重要になるのだが、まあこの車をそこまでの領域に到達させることは俺にはできないだろうから無用の心配か。
右手を伸ばすが、シフトレバーはない。
F-650バンディエラにはMTではなく、7速のDCTが用意されている。
DCTというのはATの一種だが、奇数ギアと偶数ギアを別々に担当する2系統のクラッチによって駆動されるトランスミッションで、驚異的な速度でのシフトチェンジが可能になる。
そのため、足元を探したところでクラッチペダルも存在しない。マニュアル車がクラッチを踏んでギアを入れ、クラッチを離してまたアクセルを踏みなおす――――――なんてことをしている間にこっちはステアリング裏のパドルをたった一回弾けばそれでいいのだから、速さを突き詰めるならDCTの方が合理的だ。
それでもマニュアル車を操る楽しみには代えられないという人ももちろんいる。結局それは、乗り手の好みの話になる。
「それじゃあ、行こうか」
「うん」
エンブレムの左下にある、赤いエンジンスタートスイッチを押す。
ステアリング上部のランプが端まで点灯し――――――世界最高峰の12気筒に火が灯った。
「とりあえずコンポーレは……あれ……?」
おかしい。
フェンリルの車には、マシンを統合的に制御するシステム“コンポーレ”が搭載されているのだが。
そのダイヤルは、既に“レース”モードを指している。
「最後に乗ったのヘインズさんだよな……まさかあの人、いつもレースモード使ってんの……?」
いや、怖い怖い。そもそもフェンリルオーナーの間でさえ、むやみやたらにレースモードを使わないというのが暗黙の了解となっている。背伸びしてレースモードでサーキットを攻めた結果、無残にも壁に刺さってしまう車を走行会などで必ず見かけるらしい。
このF-650バンディエラには、下から順に“コンフォート”、“スポーツ”、“レース”、“OFF”の4種類のモードが用意されている。
一番快適なのは名の通りコンフォートだ。気の利いた制御のおかげで、長距離の運転でも疲れないと聞く。
逆に、最もドライバーに対してシビアなのがOFF。つまり全アシストがカットされ、800馬力という途方もないパワーをその身一つで押さえつけなければならない。
一体誰がOFFにしようというのか。
「最初だしコンフォートにしとくか……」
ギアはPのまま、右足で軽くアクセルペダルをつつく。心臓がうるさく高鳴っている。
深く息を吸う。普通に乗るだけだ、恐れることはない。
「緊張してるの?ふふっ、レイなら大丈夫だよ」
気付くとエルマは俺の手を優しく握っていた。
そう――――――自分だけならまだしも、俺はエルマを乗せて走らなければならない。
ああ、更に緊張してきた気がする。




