107.始まりの下剋上
『じゃあ、この周で入りたい』
無線越しに伝えられたレイの作戦。3周目でピットインなんてアンダーカットにも程がある。私は思わず聞き返してしまう。
「本気で言ってるの?」
そんなの馬鹿げている――――――とは思わなかった。
だって、ちょうど私も同じことを考えていたから。
『本気だ。却下するなら、それでもいいけど』
もちろん却下なんてするわけないけど、一応チームにも確認を取っておこう。私は一旦無線を切った。
「ねえ、みんな!レイはこの周で入りたいって言ってるけど……いいよね!」
と言いながらピットクルーの方を振り返るが、彼らは私たちの無線を聞いていたみたいで、すでにいそいそとタイヤやジャッキの用意を始めていた。
「おう!」「準備できてるぞ!」
よし。あとはレイを待つだけ。再び無線を繋ぐ。
「……問題ないよ、レイ。入ってきて!」
『ありがとう』
正面に見えるピットロードの入り口から、赤いフェアレディZがまっすぐ向かってくる。この周にピットインするのは私たちの他にいないから、接触の心配はない。
『おっと?スクーデリア・ヴェントのレイナーデが、ここでピットイン!トラブルのようには見えません……これは大胆な戦略だ!』
実況によって、観客の注目までもが私たちに集まる。いつもにぎやかなクルーのみんなも、今この瞬間ばかりは口を固く閉ざしている。
どうか、上手くいきますように。
レイはぴったりの位置でZを停めた。それとほぼ同時に、マシンに内蔵されたエアジャッキによって車体が持ち上がる。
タイヤのホイールナットを緩めるインパクトレンチの音――――――違う、締めた音だ。もう新しいタイヤが装着されている。
ジャッキが降ろされ、地に着くと同時にZは肉食獣のような瞬発力でピットロードへ飛び出す。そしてコースへ合流し、そのまま駆けていった。
「はやっ……」
私の目の前でたった今遂行された、タイヤ交換というミッション。それはクルーたちの手によって、人智を超えた速度でいとも容易く完了した。
『速いッ!さすがは名門チーム!この大舞台でも持ち前のピットストップを遺憾なく発揮してきた!』
『そうですね、やはりピットストップの安定感と速さは他チームの追随を許しません。3年前の最速記録も、いまだ破られていませんから』
実況解説を聞いて、そういえばそんなことを誰かが言っていたと思い出す。やっぱり伝統のあるスクーデリア・ヴェント。ここ最近は成績が揮わないけど、今に復活すると誰もが思っているはず。私も、監督のヘインズさんも。そしてもちろん、チームみんなの期待を一身に背負って走っているレイも。
『セーフティーカーがこの周で抜けるようです。レイナーデが隊列の最後尾に着きました』
『さあ、再び戦いが始まる!この勝負の行方はまだ誰にも分からないぞ!今、レース再開!』
全てのマシンが加速し、再び1コーナーでの激しい攻防。レイは――あれ?
おかしい。さっき最後尾からスタートしたはずなのに。
無線が聞こえた。
『今20位だよね?あれ、さっき何台抜いたっけ?』
「えっ……と、そう。20位」
『よし、この周で17位まで上がる』
そう言って、上り坂の奥の2コーナーに飛び込んでいった。
いくら新品タイヤだからって、たった1周で6台も抜くなんて――普通に考えてムチャだし、ここでタイヤを酷使してしまったら最後まで耐えられない。
「レイ、あんまり無理しないで。長期戦だからね」
『もちろん分かってるよ。タイヤ温めてるだけだから大丈夫だ』
そのまま3コーナーへ。また1台抜いた。
私たちから見たら限界まで攻めているようでも、レイにとっては単なるウォームアップにすぎないのか。
無用な心配はやめて、私は私の仕事をしよう。
5周目に入る。タイヤとブレーキの温度は共に良好。
データ上でも特に異常は見つかっていない。かなりいいペース。
「見たところ問題なさそうだけど、感触はどう?最後まで行けそう?」
『行けるよ。良い感じにグリップしてくれてる。このまま突っ走ろう』
「うん!」
*
俺のやるべきことは、ただ集中して走り続けることだけだった。
一つ一つのコーナーをミスなく着実にこなして、タイヤの消耗を最小限に抑える。ストレートでは前のマシンのスリップストリームを利用して最高速を伸ばし、ペースを落とさず周回を重ねる。
そうしている間に他のマシンがピットに入り、俺はコース上に残ってポジションを上げることができる。
しっかりと、フェアレディZとの会話を交わしながら、レースを終盤まで運んでいった。
『ファイナルラップ。後ろはやり合ってるから、このまま逃げ切れるよ!』
「ここまで来たんだ。慎重に行くよ」
48周ずっと引き摺ってきたこのタイヤでは、もう前を追うことはできない。真っ向勝負するほどのグリップも残っていないし、誰かに仕掛けられたら成す術はないだろう。しかし後ろの2台が激しい争いを演じている間は、ひたすら逃げるだけで済む。順位は3位。開幕戦から表彰台に登れれば――――――
『……ちょっとまずいかも』
「何?」
『ウラクのイライザがコースオフ。メルクーレが追ってくる。どうにか逃げて!』
嫌なニュースだった。
ウラクがポジションを失ってしまったら、争っていたメルクーレはすぐにペースを取り戻すだろう。
本気で攻められたら、差はすぐに埋まる。タイヤの状態を気遣いながらコース上に留まるのが精一杯なのに、更にこちらのペースを上げるのは無理な話だ。
しかも癖や弱点まで知り尽くしているウラクの方ならともかく、相手は未知数。
マシンはメルクーレ600T。メルクーレ・オートモーティブ社のスーパーカーで、3.8LのV8ツインターボエンジンからは純正の状態でさえ600馬力を発揮する。
そのスペックを見ても分かる通り、かなりの脅威となり得る上、ドライバーもただ者ではないようだ。
「さっきの件で接触とかはなかったの?」
『なかったね。ペナルティーもなし』
「そうか……」
2コーナーを抜ける。このバックストレートでスリップストリーム圏内に入られれば、次の3コーナーで刺されて終わりだ。
しかしここを抑えることができれば、あとはインを塞ぐだけで持ちこたえられる。
猛追するメルクーレの虚像が、バックミラーを通して睨んでいる。
まだ大丈夫だ。距離はある。それをしっかり確認してから3コーナーに入っていく。
大丈夫だと、思っていた。
「嘘……どうやって!?」
しかし脱出する瞬間には、もうメルクーレが真横に並んでいた。
ただ、インを刺されただけのこと。俺が特にブロックもしていなかった隙間を、突いただけのこと。
たったそれだけなのに、俺には不可解な点があった。
だがすぐに思考が糸を紡ぎ出す。
カーボンセラミックブレーキ。
炭素繊維を基にした複合材を、約2000℃にも及ぶ高温の真空状態で加工して作られる、高い制動力と耐久性を併せ持つブレーキ。メルクーレをはじめとするスーパーカー達が持っているアドバンテージだ。
あの距離から迷いなくインに突っ込み、そしてきっちり止まってコーナーを抜けていくことができた理由。
まだだ。
まだ抜かれていない。横並びのまま、低速セクションの左コーナーに2台揃って進入する。
ここで抜かれたら、もう追いつけない。このタイヤだ。引くに引けない勝負。
耐えられない。グリップを全く感じることができない。ダウンフォースもいまやどこに行ったのか分からない。
アウトに流れてしまう。縁石が近付いてくる。駄目だ。
震えて暴れるステアリングを更に左へ切る。アクセルはこれ以上開けられない。いや、踏まなければ。相手よりも前に出て、主張しなければ。
まるで両側を壁に挟まれているみたいだ。コントロールが効かない。何をしても、アウトに流れていく。スペースを失う。まだ前に道は見えているのに。
縁石に右のタイヤが乗る。どうにかアンダーステアを抑えながら立て直す。しかし俺に残された場所はもうない。逃げ場がない。左のタイヤが乗る――――――
ザザザザァァァァァッ。
「……ごめん」
――――――コースオフ。
こんなところでタイムロスを喰らっている場合じゃない。すぐさまコースに復帰して、後を追う。
あと2周もあれば追いつく。行けるはずだ。タイヤを引き摺るようにしてコーナーを攻める。
しかし、最終コーナーを回ってホームストレートを飛ばす俺を、チェッカーフラッグが迎えた。
ファイナルラップだった。
「終わった、のか……ああ……4位だ……」
『お疲れ。……あんまりぬか喜びもよくないと思うんだけど、実はね』
何の話だ?
『さっきのコーナーでメルクーレが外に押し出したから、5秒のタイムペナルティーが下されるみたい。つまり――』
コース外のグラベルに出てしまったせいでタイムロスはしたが、それでもせいぜい差は3秒ぐらいだっただろう。相手に5秒のタイムペナルティー、ということは。
「じゃあ、俺たちが3位ってことか!」
『そういうこと。デビュー戦からいきなり表彰台だよ!』
ポディウムか。久々に耳にする、良い響きだ。
もちろん有頂天になれないことは分かっている。今日のレースで見えた課題は山積みだ。
それでも、チームとフェアレディZと一緒に走り抜いた、今この瞬間を、祝おう。
「……はは、やった。やった!ありがとう、エルマ。チームのみんなも、ありがとう。俺たちのポディウムだ!!」




