第十五話 帰郷
雑兵らしき敵兵の手鑓を、自分の手鑓で軽くおさえるようにして、そのまま突く。刃の部分が敵兵の喉元に入り、相手はあっけなく絶命した。
軽々と『人殺しをしてしまった』ことに、松千代が衝撃を受けるが、硬直してはいられない。二度、三度と敵兵の得物をおさえ、すべり込ませるように首や顔面に刃先を突き入れ、引き抜く。
負けてはいない。むしろ、全体として勝っていたがゆえに、本陣が戦場となった。松千代は混乱しがちの頭でそれだけを思った。おかしなことを考えている、という気はしたが、事実なのだから、仕方がない。
刃先が人肉にうずもれ、相手の息とともに命が抜けていく感覚が伝わる。松千代は奥歯をかんだ。胸糞が悪い。これ以上、やりたくなかった。
ただ、松千代は大将首なのだ。未熟な少年でもある。敵兵が向かってくる理由はあった。
そして、雑兵は殺せる。難なく殺せる。感じが悪いだけで、殺せるのだ。やりたくない、と思う一方、手鑓や打刀を合わせれば、次の瞬間には殺している。身体のほうが先に反応する感じだった。
(侍だからか)
幼少期から、殺人の技を叩き込まれたからか。松千代はそういうことを思った。泣きはしない。ただ、ただ、黒い念に胸元が潰されそうになるだけだ。潰されまいと必死になりながら、無意識のうちに、敵兵を続けざまに転がした。すべて、絶命している。
戦場なのだ。松千代の本陣――高台にある寺社境内だった。建前をいえば、いろんな意味で、血で汚してはならないこの場所は、いまや多数の人間がもみ合い、斬り合いを演じている。
戦局はどうなっている。分からなかった。本陣が襲撃された時点で采配などふっ飛んでいる。その点、敵の大将の判断は理にかなっていた。だが、一時しのぎの窮余の策である。自分の――この北条松千代丸の首さえ飛ばねば、このまま押し切れる。
準備に準備を重ねてきた、多数の火縄銃と木造砲。進路上に限定的に設置していた地雷。豊富な火薬、矢玉の量。柵と土塁と空堀と……考えられる限りのことをした。これらの組み合わせは、松千代の期待以上の効果を発揮していたのだ。で、なければ、敵だってこのような力攻めには出ないだろう。
ほんとうか。分からない。初陣なのだ。自分の理解が正しいかはあとで氏康公――今生の父や、幕僚たちに問うてみるしかない。松千代は手鑓をふるい、血しぶきを飛ばしつつ思った。いまは、とにかく、生き残らねばならないのだった。
いきなり、前方から新手が突っかかってきた。おそらくは本陣を直撃した敵別動隊のなかの、侍/将校格のひとりだろう。敵方も無理な動員をしているのか、雑兵が多かったが、侍がいないわけではない。
立派な鎧兜を視界におさめたとたん、松千代は冷えた頭で『防御』を選択した。手鑓を渾身の力で持ち、敵侍の技を跳ね返そうとするが、おとなと子どもである。
身長・腕力の差で組み伏せられ、体勢が崩れかけるところを、横合いから真田幸綱が突進し、敵侍と転がったと見るや、その首をかき切っていた。
「御見事!」
幸綱が叫んだ。松千代の鑓さばきのことをほめているのだろう。あるいは、先の敵侍の攻撃に対し、とっさに防御を選択したことかも知れない。そう、侍と雑兵の間には技量の面で大差がある一方、侍と侍ならば、武芸の天才でなければ、年齢・身長・腕力の差がものをいうのだった。
(こんなことは反吐が出る。でも、ほめられるのは、嬉しい――)
松千代が血泥のなかでチグハグな、しかし、素直な心情がよぎる間に、幸綱は松千代の壁になるような位置に立った。血まみれで、呼吸音はすさまじいことになっている。片手で手鑓をかまえ、もう一方で脇差をにぎっていた。鬼である。赤鬼。周囲の雑兵は遠巻きにしていた。
気づけば、敵別動隊の命がけの突撃に圧され、散り散りになりかけた、松千代の旗本馬廻衆(親衛隊)が集まってきていた。乱戦のため、みんな馬を乗り捨てている。
松千代の本陣を衝こうとした敵別動隊の突進は、もう限界かな、と、松千代は頭の片隅で思った。
不思議な感覚だった。胸苦しさのなかで、頭は冴えていた。元々、こういう性格なのか、北条松千代丸――史実上の関東の覇者・北条氏政の身体の性能のおかげかは知らない。
「馬をあるだけ集めよ!」
松千代は言っていた。幸綱が首だけで振り向き、ひどく獰猛に笑い、周囲の馬廻衆がおろおろした。逆襲しよう。松千代はそう言ったのだ。御大将みずからが……と馬廻衆は戸惑っているのかも知れないが、いまさらだった。
本陣を襲撃され、それを押し返しつつあるいま、もっとも効果的なのは、馬という、ひとと比較して巨大な動物の投入だろう。
「私が行く。いま、敵方を押し込むことで、今回のいくさは終わる!」
「おお、同事!」
幸綱が『同意見』と応じることで、周囲の馬廻衆も遅れじと『承知!』と声をあげる。ヤケクソのようだった。
徒歩武者や足軽が場を支える間に、数十騎の編成を終えた。少なくはない。敵別動隊の崩壊に乗じる(むしろ、その最後の一撃になる)のだから、敵本隊からすれば、何倍もの圧力を感じるはずだった。
松千代は馬に乗ってから、これは自分の馬ではないこと、馬の性格によっては特定の性別や年齢の人間を乗せることを嫌う個体もあること、に気づき、いくらか緊張したが、幸い、そのような性格の馬ではなかったようだ。
(ねぇ、見知らぬ馬。オレはきみを傷つけはしないからさ、ただ、この場だけでも、一緒に戦ってくれないかな……?)
松千代がそう思いながら、首筋を叩けば、名も知らぬ馬は鼻を鳴らした。なれてますよ、旦那。こんなことは……おや、意外と若いね。小兵かと思えば、なんだい、子どもかよ。そのような目で見られたような気もした。
戦場で落ち着いている、ということは、こう見えて歴戦の馬なのだろう。頼もしい、と思え、馬の首筋を二度、叩いた。よろしく、という意味。馬は前足を動かした。いつでも走れますぜ。そう言ったように思え、松千代は楽しげに笑った。
それから、松千代は前を向いた。キリッとしている。重ねていうが、本陣は高台にあるのである。駆ければ、坂道。崩れかけた敵が、坂道で騎馬突撃を受ければどうなるか。
だいたい、この敵別動隊による本陣急襲は、先述のように、ほかの手立てを失ったがゆえの窮余の一策、と考えられるのだ。もし鳥の目を持ち、天空から俯瞰すれば、この瞬間まで圧しまくっていた敵別動隊が、ふっと崩れ去る瞬間が現出することになるだろう。
作戦の開始からここまでの経緯が一瞬の光芒となって頭をよぎった。まさに一呼吸の間のような気がする。
実際には、早朝の開戦から、敵勢の誘引、野戦陣地への拘束、火器類をふくむ飛び道具による火線と、敵勢の疲弊――まったく目の玉の飛び出るような金額がこれで消えてしまったことになるが、勝てれば、それでよい。惜しくはない。惜しくはない。惜しくはないったらないのだ。
両目を超高速で泳がせ、ふと気づけば、すでに陽は中天をすぎている。そのようないくさだった。
松千代はいくらか目を伏せた。敵別動隊のこころの動きが透けて見えるようだった。本陣急襲は失敗。かれらの指揮官・将校は多数、討ち取られた。残った足軽・雑兵はこころぼそい。
帰りたい。味方の本陣はどこだ。どこへ行けば助かる? そのように思い、もはや個性を失った動物の群れとして、一定の経路を走る……。
松千代は唇をかんだ。そうだ。あそこを走ればよい。追い立てて行ける。やはり、北条氏政の身体の性能が高いのだろうか。明瞭なまでに、どこを駆け抜ければよいか分かるが、それは敵兵の救いの道を断つ、ということだ。
葛藤は一瞬だった。
気持ちを同調させた敵兵――おかしな表現とは思うが、松千代はいま、敵兵のほうへ気持ちをよせていた――それへ、こう思う。
(祈るから)
魂の平穏を。もし神霊がいるのなら、かれらの魂を故郷へ、どうか、と。
だから。
松千代はキッと目をあげ、叫ぶ。
「私に続けぇ~ッ!!」
誰よりも早く、松千代は馬腹を蹴った。手鑓をたずさえ、味方を率いて。わだかまる、かなしみは、胸の奥に秘めたまま。
まさに鳥の目を持てば、この瞬間だった。敵別動隊の攻勢がとん挫。ゆっくりと……そして、ある時点で急速に、崩壊が、そして松千代らの勝利が、はじまった。
◇
小田原城の主人は留守だが、その妻と子どもら、それから侍臣たちは常と変わらぬ業務にはげんでいる。
松千代の勝利の報告――敵の上陸部隊を迎撃し、一時は本陣を衝かれ、危うかったが、押し込んだことで、たまらず船隊へ逃げ込んだ敵勢を、江の島の島影に隠れていた伊豆水軍が襲撃。多数の火薬兵器を使うことで、敵船の大半を撃破・炎上のうえ、撃沈か拿捕していた。大勝である――が、早馬で伝えられ、城内は歓声に湧き立った。
これで相模湾の漁労は再開の目途が立ち、漁民の西進に目くじらを立てていた、駿河今川家の機嫌もよくなるはずだ。
ましてや、安房里見家の武威(安全保障体制)は崩れ、平時は交易に用いる大船が多数、撃沈・拿捕されているのだ。里見家の海上交易は大打撃の見通しだから、里見領国は、誰が造反するか、疑心暗鬼のなかで揺れ動くことになるだろう。
大手(北条氏康ら本隊)は、山内上杉領国の経略に本腰を入れられるはずだ。
氏康の正妻・椿は、特に、実家の駿河今川家との仲がよくなりそうな雰囲気に笑み崩れた。
(よくやったわね~、松千代!)
と、思う。
なお、表向き、椿は松千代のことを『松千代丸さま』と呼ぶようになっていた。なぜ自分の次男にさま付けなのか、といえば、松千代は韮山城代になっているから、身分があがっているためである。今回の大勝で、もう少しえらくなるから知れないのだから、なおさらだった。
嫡男の西堂丸も、さま付けで呼んでいる。こちらはあとつぎ、お世継ぎさま、だからだ。
その西堂丸だが、弟の松千代に初陣を先にやられ、さぞくやしかろう、と椿は思っていたら、
「いや、くやしくはないのです」
と、あっけらかんと返すから、椿は驚いた。
椿の居室である。例によって『子ども成分』をとるため、たまたま時間の空いていた西堂丸を招いていたのだ。
お菓子でも一緒につまんで西堂丸の機嫌をとろう、と思ったら、ことのほかおとなの態度であった。思えば、
(いい兄弟なのかも知れないわ~)
と、椿は感じた。
西堂丸は武芸にすぐれ器量のある、おとなびた性格。
松千代は才能の塊のような子だが、落ち着きというものがなかった。興味があればすっ飛んで行くような行動をするし、気力体力の見極めがつかないのか、はしゃぎすぎて、よくぶっ倒れていた。
(まったく、松千代は子どもっぽいといっていいわね~)
などと椿は思う。
ただ、西堂丸は松千代の性格について、椿とは別の見解を示していた。
「あいつはさびしがりやです」
「あら、そお~?」
「そうですよ。だから、今回のいくさはつらかったと思います」
「激戦と聴きました~」
「いえ、そういう意味で、つらい、と言ったのではないのですが……なんと申しましょうか、あいつはひとが好きなのです。殺し合いは、本来、向かないやつなのです。いや、だからかな。ひとが好きだから、かえっていくさがうまいのかも知れない。私の初陣はまだなので、想像でしかありませんが……」
「??? よく分からない話ですね~……」
「ああ、分からなくても仕方ありません。母上は、お姫さま育ちですから」
「ムッ。……どういう意味です~? 西堂丸さま~??」
「い、いえ、失言でした。お許しください、母上」
(そういうとこだと思うんですけどねぇ、椿さまは――)
と、侍女が母子のやり取りを耳で拾いつつ思ってるところで、
「先ほど、早馬が参りまして、韮山殿が伊豆へ帰る前に、小田原へあいさつに参りたい、とのことですが……」
と、椿の侍臣・由比千菊がおうかがいにきた。
千菊は駿河今川家の被官だが、椿の輿入れにしたがい、小田原へきた。ふだんは椿の所領(化粧料と呼ばれる)の管理をしているが、小田原住まいのあいだに妻帯し、息子が生まれている。土地になじむのがうまいひとだった。
「なに言ってるの。おうかがいを立てる必要なんてないのに~」
「母上の申されるとおり。さっさとこい、と伝えてやれ、千菊」
「ハハッ。ではでは、御前さま、御若君、両君の御意のままに――」
由比千菊はちょっと笑って、ひとを呼びに行ったようだった。千菊もまた、椿や西堂丸からすれば、身内のようなものだ。
「それじゃあ歓迎の用意をしなきゃ~。きっと泊まっていくでしょうから、松千代丸さまは~」
「そうですね……では、私は供回りを連れて、遠乗りのていで松千代を迎えに参りましょう。初陣の話も聴きたいし」
「それがいいわ~」
ということで、西堂丸は近習・小姓衆に声をかけ、遠乗りのていで馬を走らせた。小田原城を出て、城下町の木戸を抜ける。街道をいくらも行かないうちに、韮山衆の先ぶれがきた。
「北条家お世継ぎ、西堂丸君である!」
と供回りが言えば、先ぶれの武者はあわてて馬を返した。待つほどの間はない。
「兄上!」
「松千代か!」
西堂丸は馬を降りた。松千代も飛び降りるように馬から離れ、西堂丸のところへ駆けてくる。
ふと、松千代の足が止まった。戸惑っている。西堂丸にはそれが分かった。昔からだ。こいつは自分を前にすると、たまに戸惑う。たいてい、こわい夢を見たとか、イヤなことがあったとか、そういう日だ。
(手のかかる弟だ)
西堂丸は呆れるように思い、松千代の前に立った。手を差し伸べる。
「母上が待っているから、帰ろう」
「……帰っていいの?」
「当たり前だ。おまえはたまに変なことを気にするな。私の身体が健康か、とか」
松千代が、なにか言おうとした。泣き笑うような顔だった。西堂丸は手で制し、行こう、と誘う。松千代は袖で両目をぬぐい、
「りょーかい、兄上!」
と、子どもっぽい、満面の笑顔――赤い頬と白い歯を見せた。
それでいい。西堂丸は笑い返しつつ、思った。こいつの頭のなかは自分なんかより、ずっとすぐれている。そのぶん、苦労は多いだろう。わけの分からないことをたくさん言う。しなくてもいい心配まで、たくさんしてしまう。だから、それでいいのだ。
今日くらい、ただの弟でいろ。この西堂丸の弟で、ほかの弟や妹たちの次兄でいろ。おまえは、まだ会ったことがないだろう。あたらしい弟が生まれたのだ。異腹だが。同腹でいえば、先年、生まれた、妹など、もうおまえの顔を忘れているかも知れないぞ。
言ってやりたいことが、山ほどあった。
きっと松千代は、小田原の城館へ帰りつくや、出迎えの弟、妹たちに、両手を広げて喜ぶに違いない。おまえがいちばん、子どもっぽいのだ。いや、三弟の藤菊丸と、どっこいどっこいか?
おまえはまとわりつく弟妹を支えようとして、踏ん張って、結局は子ども同士ゆえ、どーんと転がる。母上や侍女衆はお笑いになるだろう。うえの妹など、泣くかも知れないな。自分は呆れたあと、きっとおまえたちを助け起こす。
それから、腹いっぱい、小田原の食事をしよう。そして、ぐっすりと眠るのだ。
それが、たぶん、今日のおまえにはいちばんいい、と、西堂丸は思った。




