第十話 数百年先に届く名前
特許料は『百貫文につき六貫文』。
つまり『売上の六パーセント』である。
特許料の徴収は商家の帳面をあたればいいのだから、田畑からあがる年貢をマスではかるよりは楽であった。なにより、粉コンニャクが売れれば売れるだけ、安定収入が見込めるのがすばらしい。
『よくやった』
今生の父・北条氏康のことづけである。戦陣にいる氏康の、満面の笑みが目に浮かぶ。
氏康側近・南条綱長から伝えられた際、
(泣きそう――)
と、松千代は涙ぐんだ。なにか、喜ぶより先に、泣けた。
コンニャク芋の採集・仕入れ・粉コンニャク製造の冬がすぎ、販売の春すらすぎた。
月初めの特許料の納入は何度目だろう。
夏の盛りのなか、荷役の運び込む銭の入った箱は月ごとに増えた。
「二年後はもっと増えますよ」
安房の宗富はそう言った。松千代は目を『永楽通宝』にしたが、ふと真顔になって、次いで、はにかむような表情をした。
「ありがとう――」
松千代は感謝した。
確かに、これで『趣味』に使える資金はできた。しかし、松千代なりに行動するなかで、多くの人間が、松千代の提案にかかわった。
安房の宗富、その孫の足軽・利八。名主や、別の商家の青年や、牛馬売買の頭目や、お寺の高僧や――とにかく、大勢の人間がだ。
夏の日差しが常にない色彩を帯びていた。松千代は風景をまばゆげにながめたあと、
「そうだ。昼のおにぎりを食べたら、館の庭に来てくださいね」
と、言い置いた。
基本、この時代の食事は朝夕の二食だが、登城した人間には昼におにぎりと漬物がふるまわれる。松千代とて育ちざかりだから、おにぎりをふたつばかり平らげ、指をねぶっているころ、取次の先導する宗富がきた。
「ようこそ~」
と、松千代が応じる。
来客はふたり。宗富と、孫の利八である。利八は、あらかじめ引見し、庭の木陰でおにぎりを食べさせていた。
宗富は孫の姿を戸惑いでもってながめ、利八はチラと祖父を見るだに、うつむいている。松千代は縁側にあぐらをかき、言った。
「水飲む?」
なにか、アホな響きに聴こえたのだろう。利八は顔をあげ、宗富と目を合わせた。お互いに苦笑し、肩の力が抜けたと見えたところで、松千代は切り出した。
「さて、利八には遅ればせながら、恩賞をあげます。今回、私が粉コンニャクの製造と販売ができたのは、利八がおじいさまの宗富殿を紹介してくれたから――宗富殿。私の頼みを聴いてくれてありがとう。私は嬉しかった。たぶん父上――お殿さまも同様でしょう。あなたのお孫さんはとても頭がよい。私が雇用してもよいでしょうか」
「いやおうはございますまい。果報でございましょう――」
宗富は言い、利八が背筋を伸ばした。宗富が利八の肩を叩き、利八はうつむく。利八が目元をぬぐった。それから、ふたりならんで庭に座った。頭をさげてくる。
松千代は告げた。
「きみたちには『山下』の家名を下賜し、武家に取り立てる。利八はこれから仮名を『利八郎』とし、実名を『芳秋』と名乗るよう。扱いは私の直臣とします。俸禄は六石から。身分は足軽のままですが、いろいろと色をつけさせていただきました。不足でしょうか」
「滅相もない! ただ――」
「なんでしょう、利八郎?」
「利八郎は分かりますが……山下と芳秋はなにかご由来があるのでしょうか……?」
言われ、松千代は笑った。いくらか『地』を出しつつ、言う。
「『木下』に負けないようって言ったら、『山』下でしょ? 芳は単に字が好きだからで……まあ、『秋』に由来があるくらいでしょうか」
松千代は前世の自分の名前を忘れていなかった。当然、妹や弟のことも。
『秋』の字をあげる意味はあった。少なくとも、松千代にとっては。それは信頼を意味した。
「はあ……」
利八郎は気の抜けたような返事をした。念願の武家になった。家名やその他を一気にもらった。なんだか夢を見ているような気分だったろう。
一方の宗富は微笑んでいる。これからいそがしくなるのが分かり切っているのだ。いまのうちだぞ、いまのうち、という意味のこもった、年季の入った笑みであった。
それから、松千代とふたりの目が合う。
松千代はふんぞり返った。
いまの自分はえらいのだ。
人品がどうとかではなくて、身分がある。慣れはしないが、周囲がえらそうさを求めるのなら、そうふるまいもしよう。ことさらにえらそうぶって、松千代はお澄まし顔で言うのだった。
「以上! もって私に仕えるようにっ!」
すると、いきなり、はじけるような笑い声が起こった。松千代が自分で、てめえの言い草のあまりの似合わなさに笑ったのだった。松千代の気分が伝わったのか、庭先のふたりも、それぞれなりの笑い声をあげた。
天文十六年(一五四七)、夏。粉コンニャクの製造と販売の実績をもって、小田原北条家は山下宗富を中心にコンニャク座(同業者組合)を組織し、より大々的な製造と販売を公認した。
共同出資と出資額ぶんの『株』を持ち、株に応じた利益配当を受ける、このコンニャク座は、のちの世に『日本の株式会社のはしり』とうたわれる。少なくとも、後世における史料上の初見とはなろう。
ともあれ、小田原城下のコンニャク座の『創業者名簿(中身は起請文なので、細かくいうと違うのだが、事実上のそれ)』には、百年ほどのちの史料編纂事業のなかで、別紙に粉コンニャクの発案者としての注記が入る、北条松千代丸の名前が残ることになるのだった――。
まあ、つまり、松千代、なんか知らん間に後世の史料デビューを飾ったわけであり、もし、本人がこのありさまを見れば、『ばんじゃーい!!!』と喜んだことだろう。もちろん、知れば知ったで、多少のむずがゆさはあるかも知れないが。




