おれは予言者 :約4000文字
――ん?
朝、おれは小さくため息をつきながらオフィスへ足を踏み入れた。湿気をたっぷり含んだ空気が肌にまとわりつき、空はどんよりと重い雲に覆われていた。こういう日は気分が沈むものだ。別に何か悪いことが起きる予感がするわけでもないのだが。
と思っていたのに、違和感に足が止まった。
灯りはいつもどおり煌々と点いているのに、しんと静まり返っていたのだ。
誰もいない――ふいに、小学生の頃の記憶が脳裏に浮かんだ。台風で自宅待機になっていたのに、それを知らずに登校してしまい、入口の前で一人立ち尽くした、あの日の感覚だ。
だが今日は台風どころか風もほとんど吹いていなかった。
「なんでだ……」
「おっ」
独り言のつもりで呟いた声に反応があった。思わず肩が跳ね、顔を向けた。すると、デスクの陰から後輩の立木がひょいと顔を出した。
おれは胸を撫で下ろし、頬を緩めて歩み寄った。
「びっくりした。誰もいないのかと思ったぞ。他のみんなはどうしたんだ?」
「来てませんよ。有給か在宅勤務です」
「えっ、全員? ははは、今日なんかあったか? スポーツの試合とか、新作ゲームの発売日とか……」
おれは冗談めかして言いながら首を傾げた。会社のほぼ全員が一斉に休むなんて、いったいどんな理由だろうか。まったく心当たりがない。
すると、立木は呆れたように笑った。
「ははは、何言ってるんですか。今日は“大災害の日”じゃないですか」
「え? 災害? なんだそれ……。追悼の日か?」
この日にそんな大きな災害が起きたことはなかったはずだが……。おれが知らないだけだろうか。最近は忙しくて、ニュースも流し見程度だ。
おれが眉を寄せていると、立木が仰け反るように笑った。
「いやいや、先輩が予言したんじゃないですか。今日、大災害が起きるって」
「は? おれが?」
「そうですよ。三年前に言ったじゃないですか。忘れちゃったんですか?」
「えっ、三年前……あー……んー?」
「ほら、『これまでのパターンからいって、三年後の今日だな……』って」
「あっ」
思い出した。たしかにそんなことを言った気がする。海底で大地震が起きて、大津波が押し寄せる。断片的な映像が頭の奥から浮かび上がってきた。だが……。
「いや、でもあれはただの夢だぞ」
おれは苦笑して言った。そう、雑談のタネにそんな夢を見た話をしたのだ。予言でもなんでもない。おれにそんな予知能力なんてものはないし、そもそも占いもオカルトも信じないタイプだ。
だが立木は眉をひそめ、ため息をついた。まるで物分かりの悪い子供を前にしたみたいだった。
「この現状を見て、よくそんな他人事みたいなこと言えますね」
「現状……?」
「みんな、先輩の予言を信じて家にいるんですよ」
「は!? 全員!? いや、そんな馬鹿な……」
おれは改めて周囲を見渡した。
「本当ですよ。だって先輩、前にも会社で当ててるじゃないですか。『そろそろ地震が来る時間だな……』って。まさか、それも忘れちゃったんですか?」
「え、いや……ああ、あれか! そうそう、あれも夢で見たんだよ。まあ、時間は少しずれてたけど、偶然ってあるもんだなあ」
「偶然って……。あれ以来、みんな先輩の“予言”に敏感になったんですよ」
「ええ? それは知らなかったが……いや、まさか、あれだけで全員信じたのか? ただの夢だぞ」
「それだけじゃないですよ」
立木は首を横に振った。
「先輩、快晴の日に傘を持ってきたことがあったじゃないですか。天気予報も一日中晴れ。みんなは『またボケッとしてんなあ』って笑ってましたけど、帰りにゲリラ豪雨が来たんですよ」
「あー……そんなこともあったなあ。いや、あれは前に盗まれた傘がたまたま道に落ちてたんだよ。コンビニのビニール傘なんだけど、パンのポイントシールを貼ってたから、おれのだってわかってさ。ははは、あれは嬉しかったなあ……というか、笑われてたんだな」
「……シール?」
「ん? そうそう、集めるとお皿がもらえるやつ」
「何ポイントでした?」
「え、たしか、一ポイントが二枚だったと思うが……」
「なるほど。あのパターンか……」
「は? うおっ」
突然、立木が素早く鞄からノートを取り出し、机の上に広げて何かを書き始めた。ページはすでに細かい文字でびっしりと埋まっており、よく見ると、そこかしこにおれの名前が書かれていた。
どうやら、おれの何気ない発言や行動が日付つきで克明に記録されているようだ。
「つまり、この日に鼻くそをほじったから中国に隕石が落ちてきて……となると……」
「いや、おい、ちょっと立木……」
「計算中です。しばしお待ちを」
立木は背中を丸め、目を見開いたまま、紙を破りそうな勢いでペンを走らせていた。カリカリという音が、静まり返ったオフィスに不釣り合いなほど大きく響く。おれはぞっとし、半歩、さらに半歩と後ずさった。
それにしても、まさか、みんなが本気でおれの“予言”なんてものを信じているとは……。それこそ信じられない。たかが夢の話だというのに。
……いや、もしかすると、この立木が密かに少しずつ不安を煽って回っていたのかもしれない。あの異様な熱量と断定的な口調で迫られたら、少なくとも冗談とは思わないだろう。
「……あ、でも、なんでお前は家にいないんだ?」
「非常食などの備えはそこの鞄に入ってますから」
立木はノートから顔を上げずに、腕をぴっと伸ばして指さした。その先には赤いリュックサックが置かれていた。縫い目が悲鳴を上げそうなほど、ぱんぱんに膨らんでいる。
「それより、先輩の行動パターンのほうが重要ですからね。未来を確実に予測するにはデータはいくらあっても困りませんから。緻密なデータがね」
「行動パターンって……あ、まさか、おれの後をつけてたのか……?」
「だったら、僕が先に会社にいるのはおかしいでしょう」
「ああ、それもそうだな……ははは……」
「先輩のスマホにGPSアプリを入れてあるので尾行なんて非効率的な真似はしませんよ」
「いや、お前勝手に何やってんだよ」
「これがあの事象と結びつくから……いいデータだ……統計学的に……よし……最高のデータだ……」
「データ、データうるさいな。どれだよ、そのアプリ。今すぐ消せよ」
「そんなことよりも先輩。あと二分です」
立木はぴたりと手を止め、ゆっくりと背筋を伸ばして、おれに向き直った。
「え、何が……?」
「決まってるじゃないですか。大災害が起きる時刻ですよ」
呆れたような口調とは裏腹に、立木の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。それは安心とも期待ともつかないどこか陶酔した表情で、まるでずっと待ち望んでいた映画の公開を前にしたファンのようだった。
「いやいや、待てって。確かに地震の夢を見たことはあるが、外れたことのほうが多いし、そもそも寝る前にパニック映画を見た影響とかで――」
「ははは! はいはい。ま、本当に外れるならそんなに意地にならなくてもいいじゃないですか。本当に外れるならね」
立木はにやりと笑った。
「まあ、どちらが正しいかはすぐにわかりますけどね」
「なんでお前が誇らしげなんだよ」
「まったく、目覚めてない人はこれだから……。でもね、じきに刮目することになりますよ」
「目覚めてない人……? いや、おれの予言なんだよな」
「ああ、そろそろですよ……」
「だから、ただの夢なんだよ」
「あと十秒です……」
「聞けよ。なんで予言のほうは信じて、おれの話は聞かないんだよ」
立木は腕時計に視線を落とし、低い声でカウントを始めた。鼻をわずかに膨らませ、薄く笑っている。呼吸が荒く、肩や足が小刻みに震えていた。それが興奮なのか、恐怖なのか、おれには判別できなかった。
「七……」
ただ、おれはなんだか嫌な予感がしてきた。
「四……」
夢を見たときとは違う。脳髄の奥で何かがびくびくと跳ね回っている。
「一……」
まさか、本当に――。
「…………いや、何も起きないな」
おれは周囲を見回し、そう呟いた。どこも揺れてない。蛍光灯がちらつくこともなく、外から悲鳴が聞こえることもない。窓の向こうから流れ込んでくるのは、いつもどおり通行人の笑い声や車の走行音だけだった。
海底とはいえ、そんな大地震が起きたのならここだって必ず揺れるはずだ。おれはスマホを取り出し、ニュースサイトを開いた。だが速報は一件も出ていなかった。
「ふ、ふふ……。まあ、そんなもんだ――」
言いかけて言葉が喉に詰まった。立木を見ると、やつは机に両手をつき完全に固まっていた。
「……立木? ま、まあ、当たらなくてよかったじゃないか。みんな防災意識も高まったし、結果的にはいいことだ。……いやあ、でもまさか、全員が予言なんてものを信じるとはなあ。ははは、ノストラダムスやマヤ文明の予言みたいだ。あ、十三年周期でそういう世界滅亡説が流行るらしいな。そういえば周期的に今年か……。それもあって、みんな信じちゃったのかな」
おれは慰めるように喋り続けた。だが、立木は一切こちらを見ない。微動だにせず固まったまま――いや、わずかに震え始めた。
「ううう……」
「ん? 立木……?」
「あああああああう! どおして! どおしてどおしてなんで、なんで! なんで!」
立木が突然、ダン! と机を叩いた。肩を激しく震わせ歯を食いしばり、獣のような荒い息を吐き出す。
おれが思わず身を引くと、立木はリュックサックを開けて、手を突っ込んだ。携帯トイレ、乾パン、ランタン――排水溝に詰まったゴミのように掻き出していく。そして、何かを引きずり出した。――ナイフだった。
おれはとても嫌な予感がした。




