230、本格的な舞台練習スタートの裏で。
練習日二日目。しばらくは舞台の練習漬けになるだろうと着替えなどを持ってきたミロクは、他のメンバーと待ち合わせている事務所前に数人の女性たちがいるのを見つける。
(事務所に用がある人たちかな?)
首を傾げつつ後ろからそっと近づくと、どうやら誰かを待っているらしい。
「ねぇ、本当にここにいるの?」
「肉屋でコロッケ揚げてるおばちゃんが、ここに事務所あるって言ってたもん!」
「王子いるのかなー、『344』のメンバーとかー」
待っている誰かというのは自分達のことかと、ミロクは彼女たちの後ろから声をかけることにした。三人の内の一人の女性にこっそり近づき、耳元で囁く。
「ダメだよ。可愛いから隠れても見つかっちゃうよ」
「!?!?!?」
声にならない声を上げ、女性は振り向くと同時に思いきり至近距離からミロクを見てしまう。他の二人の女性も信じられないといった様子でミロクを見ている。
「俺のこと待ってたの? それともヨイチさん? シジュさん?」
「ふぁ、あ、あの、お、王子を……」
「俺のこと、王子じゃなくてミロクって呼んでよ」
「みろく、おーじ、しゃまぁ……」
さすがに王子は恥ずかしいよと、目元を赤くして困ったように微笑むミロクのダダ漏れるフェロモンに、至近距離にいる女性は名前を言うだけで精一杯だ。そしてフラつく彼女を両脇で支える女性二人の顔も赤い。
「あ、ごめん、急がないとだ……来てくれてありがとうね!」
大きなボストンバッグを担ぎ直すと、慌ただしくミロクは事務所のあるビルへと走っていく。
入り口で振り返り、せめてもと軽く投げキスを送る王子の甘いサービスに、彼女たちはまことしやかに流れている噂の『災害級フェロモンを持つオッサンアイドルグループ』に、迂闊に近寄るんじゃなかったという後悔と鼻血が出るくらいの幸せという、文字通り「天国と地獄」を体感したのだった。
事務所のガラス扉を開けると、すでに準備が整っているヨイチとシジュが顔をニヤつかせてミロクを迎え入れる。外でのファンらしき女性達との絡みを見ていた兄二人は、弟の成長をひしひしと感じていた。
そもそもミロクは長いこと引きこもり生活を続けていたため、ネット上ではともかくリアルでの人との交流を苦手としていた。話しかけられればなんとか対応できる程度だったミロクが、一人の時に自らファンに話しかけれるようになったとは、これまでの彼からは考えられない行動だった。
「なんですか?」
「いや、本当に良かったと思ってね」
「お兄ちゃんは嬉しい! 嬉しいぞコラ!」
「シジュさん痛い! 痛いです!」
満面の笑みでヘッドロックをかけてくるシジュに、ミロクは痛いと言いつつも嬉しそうにしている。それをヨイチは微笑ましげに見ていたが、フミが事務所に入って来たのを見て社長の顔に戻る。
「マネージャー、始まったばかりなのに申し訳ないけど、舞台練習を抜けるかもしれない」
「はい、どれくらいですか?」
「それが見えないんだ。あまり長くならないようにしたいんだけどね」
「分かりました。着替えは私の方で預かっておきますね」
「よろしく。僕はスーツで行くよ」
「……了解です」
舞台……特に演劇というものは、最初の方で役者たちとの連帯を作ることが重要である。それを抜けてしまうのはミュージカル初挑戦の彼らにとって、良くない事態だと思われた。
ヨイチの少し緊張しているような雰囲気にフミは心配そうな顔になる。そんな彼女の表情ひとつも見逃さないミロクは、シジュとふざけ合っていた動きを止めると真っ直ぐにヨイチを見た。
「どうしたんですか? 厄介な相手なんですか?」
「珍しいな、ヨイチのオッサン」
さすがのシジュも、いつもと違うヨイチの様子に気づく。弟達の様子にヨイチは笑顔で首を振った。
「大丈夫だよ。大したことじゃない。相手が相手だから少し身構えているだけだよ」
「社長、先方は……」
「うん、実は、シャイニーズ事務所の社長さんに呼び出されてね」
「ええっ!?」
驚いて少しよろけるフミを支え、ミロクは眉をひそめてヨイチを見る。
「シャイニーズ事務所の輝岡社長ですか? ヨイチさん、大丈夫ですか?」
「所属タレントに心配されるって、僕は芸能事務所の社長失格だね。テルミー社長とは旧知の仲だし大事にはならないと思うんだけど、取り巻きさん達がねぇ……何か厄介なことが起こりそうな気がするんだよ。まぁ、頑張るさ」
「頑張ってどうこうできるもんじゃねぇだろ。俺らに出来ることは?」
「俺も協力します!」
勢いよく言う弟二人に、ヨイチは苦笑してデスクの後ろにあるロッカーからスーツ一式を取り出す。
「これは社長である僕の仕事だからね。ミロク君とシジュは、とにかく舞台の練習に集中すること」
「私がしっかりサポートするので、舞台の方は任せてください」
「うん、頼んだよマネージャー」
不安そうな顔をするミロクの顔をフミは下から見上げ、ふんすと気合を入れるように握りこぶしを上下に振る。
「頑張りましょうミロクさん! 社長は大丈夫です!」
「……うん、そうだね。俺たちが頑張ってヨイチさんが戻っても安心できる土台を作っておこう」
「しゃーねぇなぁ。待っててやるから、早く戻れよ」
「ありがとうミロク君、シジュ。フミもよろしく頼むよ」
「はい!!」
元気に返事をするポワポワな茶色の猫っ毛頭を撫でるヨイチは、それでも心の中で大きくため息を吐くのだった。
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