210、着物イベント準備と志摩子の事案。
丸一日のオフであるシジュが事務所に顔を出したのは、衣装が届いて少し経ってからだった。あまりに早い登場にヨイチは呆れた顔で彼を見る。
「せっかくの休みなのに、事務所に来るの早くないかい?」
「ほっとけ」
「ジャージ姿ってことは、トレーニング中でしたか?」
「まぁそうなんだけどよ、走ってたら『カンナカムイ』の二人に会った」
「へ? なんで?」
ついさっきまでフミに『シジュが取られる』と悩み相談をしていたミロクは、ポカンとした顔をしている。そんな弟の間の抜けた顔に、シジュはつい噴き出す。
「お前、なんつー顔してんだよ。あいつらはまだ地方公演の途中らしいが、一度こっちに戻ってたらしいぞ。会ったのは偶然だったけど、直接イベントの曲のデータを送ってもらった。ヨイチのオッサンにもメールがきてるんじゃないか?」
シジュは先程彼らとやり取りする中で受け取った、音楽データをスマホから流す。尺八や琴の音が、ゆったりとした曲調にのって流れている。
ヨイチはタブレットでメールを確認しつつ、聴こえてくる音楽に耳を傾ける。
「これ、どこかで聴いたことがあるような気がするなぁ……」
脳内で情報を整理しきれてないミロクだったが、聴こえてくる曲にスイッチが入ったかのように反応する。
「えっと、これ、『炎天』ですよね。元の曲はテンポがすごく早いんですけど、スローテンポにしましたか……。有名な『ボーカロボット』の曲です」
「そういや、テレビのCMでも流れていたな」
原曲を思い出したのか、シジュはしばらく無言のまま衣装の着物に視線を向けていた。
「どうしたんですか?」
「衣装、やっぱり派手だよねぇ」
「いや、これくらいがちょうどいい。俺らは派手に目立つパフォーマンスをする必要がある……だろ?」
無精髭を撫でつつニヤリとした笑みを浮かべるシジュ。その笑顔になんとなく嫌な予感を感じるミロクとヨイチは、二人そろって背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
横浜にある船を型どったイベント会場は、ちょうど先端部分が海に半分乗り出したような建物になっている。着物イベントの会場は最奥であり、最先端の場所にあった。
「へぇ、本物の船みたいですね」
「なぁ、帰りに中華行こうぜ。中華」
「イベントが成功したらね」
「あ、じゃあ良さそうなところピックアップしておきますね!」
横浜といえば中華街だろうと安易な発言をしたシジュに対し、顔を輝かせてスマホを操作しているフミをミロクが微笑ましげに見ている。ヨイチが周りの視線を感じ、三人に呼びかける。
「ほらほら(フェロモン撒き散らすと)通行の邪魔だから会場に向かうよ」
「「「はーい」」」
「……何だか僕、引率の先生の気分になってきたよ」
「ヨイチさん、ドラマでも先生でしたからねー」
ワイワイと話しながら去っていく、美丈夫三人と小さな女子。彼らを見ていた周りの人々は「今日は何かあったっけ?」と展示場のイベント内容を慌ただしく確認している。
その中に一人、やけに背の高い男性がいたのだが、ミロクたちは気付くことなくイベント会場に向かうのだった。
「おはようございます! 『344(ミヨシ)』の皆さん、今日はよろしくお願いします!」
会場に着くなり、駆け寄ってきたのはイベントの企画を担う男性担当者だった。準備が忙しいのだろう、目の下に隈を作っているが元気よく挨拶をしてきた。
床は木材で造られており、歩くと弾力があるのが不思議な感覚に、ミロクは何度か床を足で押して確認している。
「今日はよろしくお願いします。早速舞台の確認をしても大丈夫ですか?」
「もちろん、どうぞ」
ヨイチの言葉に笑顔で頷く担当者。案内された舞台には、先に搬入してあったらしい和太鼓が舞台上に設置されている。楽器のみ置いてあり、『カンナカムイ』のメンバーの姿は見えない。
キョロキョロと周りを見回すミロクを見て、担当者はクスクス笑う。
「先にいらっしゃってる皆さんは、控え室で軽食をとられています。早めに食べておかないといけないそうで……」
「まぁ、和太鼓とか重労働だからな。ある程度カロリー摂取した方がいいし、消化してないとヤバイからな」
「ですね。俺たちも軽く食べときます?」
「そうだね。舞台の確認もしたし控え室に行こうか。フミ、衣装を運んでおいてくれる?」
「分かりました!」
「あ、ではスタッフを向かわせますので」
「お願いします!」
イベントスタッフと共にフミはパタパタ走っていった。今日のフミは駆け回ることを想定していたらしく、カジュアルなシャツとデニムのパンツスタイルで、靴もスニーカーにしている。
会場の奥のドアを出ると木材で造られた会場とはうって変わって、白い壁と細長い廊下になる。そこを進むと控え室があり、入り口前にはサンドイッチなどの軽食や菓子、ペットボトルの飲み物が大量に置いてあった。
「ここから好きなものをどうぞ。飲食は控え室でお願いします」
「分かりました。ありがとうございます」
男性担当者にヨイチは礼を言ったところで、控え室の中から小さな生き物が飛び出して来たのが見える。しかし、次の瞬間「ぐえっ!」という妙な声が聞こえ、仏頂面をした『カンナカムイ』のリーダー神無が彼の目の前に立っていた。
そして、神無の手には首根っこ掴まれているチマ子こと、志摩子の姿があった。
「いい加減にしろ志摩子。怪我をさせたらどうするんだ」
「シジュと違って、この人かなりマッチョだから大丈夫かなって……」
いい年をして何をやっているんだと、神無が声を荒げようとしたその時、ヨイチは腰をかがめて志摩子に目線を合わせる。
「えーと、志摩子ちゃん? ダメだよ。また怪我しちゃうよ?」
「ふぐっ……」
その切れ長の目を細め、ふわりと笑顔で言い聞かせるヨイチの顔を真正面から見た志摩子の顔は、みるみる赤くなっていく。慌てたように自分を掴む神無の手から逃れると「ふぎゅぅぅぅ!!」と謎の叫び声を上げながら、控え室の奥へと消えていった。
「これは、事案ですね」
「事案だな」
「え? 何で? 僕何もしていないよ?」
ミロクとシジュに半眼で見られたヨイチは、一人腑に落ちない様子で首を傾げた。
お読みいただき、ありがとうございます。




