168、芙美の失敗とオッサンアイドルファンのパワー。
終わらないバレンタイン。
絶望。
彼女はこれまでの人生において、絶望というものを感じた事は無かった。
しかし今日、この日、彼女は膝から崩れ落ちるくらいの虚脱感と共に「絶望」という名の悪魔に心を乗っ取られてしまった。
テーブルに突っ伏した彼女は弱々しく呟く。
「真紀、ごめん、もう一度言ってもらって良いかな」
「え、うん、良いけど……。バレンタインの日、王子にチョコあげたのかって聞いたんだけど」
「あああああ!!」
週半ばの穏やかな昼下がり、小洒落たカフェに繰り出したフミと真紀は、お気に入りの窓際の席でまったりとティータイム中だった。
オッサンアイドル344(ミヨシ)の敏腕マネージャーであるフミは、ここ最近ドラマの撮影などで休みなく働いていた。さすがにそれは宜しくないと、社長であるヨイチの計らいでフミは丸一日休みを貰うこととなり、彼女の親友である真紀はそれに合わせて有給休暇を取った。久しぶりのデート?である。
「フミ、どうしたのよ……いや、何となく分かるんだけど、とりあえずテーブルにおでこ打ち付けるのやめようか。店員さんがびっくりしてるから。すごく引いているから。この店に来れなくなるのイヤだから」
「あーうー」
テーブルに突っ伏したまま額をゴツゴツ打ち付けていたフミだが、真紀の言葉にとりあえず動きを止める。落ち込む親友に憐みの視線を送りつつ、ショートボブの黒髪をさらりと揺らして真紀は頬杖をついた。
「忙しかったんでしょう、今からでも何かすればいいじゃない」
「事務所にダンボール箱がたくさん置いてあってね」
「え?うん」
「それ、全部チョコレートだったのかなって」
「まぁ、全部ではないだろうけどね」
「女の子の好きがいっぱい詰まってたのかなって」
「フミはいつも好き好き光線送ってるじゃない。てゆかむしろ送られてるじゃない」
「私の女子力は、皆無なんだよ……」
「ねぇ、さっきから思ってたけど、私の話聞いてないでしょ」
真紀は頬杖をついたまま、テーブルに突っ伏したままのフミの茶色のポワポワ頭を見ると、えいやっと人差し指でつむじをグリグリ押してやる。
「やめてよーツボ押さないでよー」
「フミが話聞かないからでしょ! ほら、今から行くよ!」
「どこに?」
「本当に話を聞いていないんだから。チョコ贈りたいんでしょ」
「ん」
「ほらほら、むーびーむーびー、行くよ!」
久々まったりティータイムだったが、急きょ乙女の戦闘準備の日となったフミの休日。それが勝敗の決まった出来レースではあるものの、フミ本人は真剣に悩んでいる。
きっと相手がアイドルだからとか、仕事だからとか考えているのだろう。フミは昔から真面目な子だった。
(まったく、あのオッサン王子は……いい加減にして欲しいんですけど)
ちゃんと面倒を見て欲しいと、親友のためにも一言物申す必要があると思う真紀だった。
ファッション雑誌の撮影を終えたミロクは、のんびり電車に揺られていた。
都心から離れた広い公園のある現場では、自分より若いであろう親と小さな子供達が遊んでいる姿がちらほら見えた。
何事もなく女性と付き合い結婚すれば、自分もあの中にいたのだろうかと考えるが、今の自分のやっている事に後悔はない。むしろ幸運だと思っている。
それでも憧れのようなものはあった。
(こんな気持ちになるようになったのも、すごい事だよな)
引きこもっていた頃は、誰かと比べるとか何かがしたいとか、そういう気持ちは一切無かった。ただ生きているだけ。家族と少し接するだけの生活。
ネットがリアルであり、そのリアルで生きていた。
(やろうと思えば何でも出来るって、この年齢になって知るっていうのもね……)
つらつら考えながら電車に揺られるミロクは、メガネと帽子を装着していても乗客からの視線を集めていた。前に座る女性客が顔を赤らめてミロクをチラチラ見る動作に気づいた彼が微笑むと、素早く俯かれてしまう。
そういえば女性にこういう態度をとられたのは、太っている時でもあったなとミロクはほのぼのと思い出していると、事務所の最寄駅に着く。
ミロクが電車から降りた後、残った乗客たちはドアが閉まるなり大興奮でSNSに入力していく。オッサンアイドルの認知度は少しずつ上がっており、彼は気づいていないが344(ミヨシ)だと分かる人間は増えてきていた。
「微笑まれた!可愛い!」
「シジュさんは今日一緒じゃないのね!」
「ヨイチ兄貴はレアだよな」
この路線でミロクに会えた幸運を、344を知る乗客たちは喜んでいた。初めて彼らに会った乗客も、今日はミロクの甘いフェロモンを体感してしまった為、まんまとオッサンアイドルのファンとなるのだった。
「戻りました」
事務所の入り口に積まれた沢山のダンボール箱に驚きつつ、ミロクは奥の社長席に向かう。パソコンの画面をジッと見ていたヨイチは帰ってきた彼に気づき顔を上げる。ブルーライトをカットするメガネを外して、笑顔でミロクを迎える。
「おかえりミロク君。撮影ご苦労様」
「ヨイチさんただいまです。すごいダンボール箱ですけど、備品ですか?」
「何を言ってるのかなミロク君は。バレンタインのプレゼントに決まっているだろう」
「へ?」
キョトンとした顔のミロクは、改めて積み重なるダンボールを見る。その中から見慣れたクセのある黒髪が覗く。
「お、ミロク戻ったな。手伝えー」
「シジュさん? 一体何やってるんですか」
「何ってファンからのプレゼントの整理だろ。変なのは入っていないってサイバーチームが言ってたから、とりあえず手作り菓子と、既成品の菓子と、その他って分けてるぞ」
「これ全部ですか!?」
「これでも少ない方だよ。うちはサイバーチームがいるからね。ネットでのバレンタインイベントでお願いして、プレゼントを控えてもらったんだよ」
「へぇ、そんなんやってたのか」
「一口千円でネット上でチョコが送れるようになっているんだ。集まったお金は一部寄付するって形にして、残りはファンクラブの運営費と参加してくれたファンへお返しの品を送る事になっているよ」
「あ、コメントつけれるようになっているんですね。後で読めますか?」
「もらったコメントは添付して後でメールしておくよ」
「だよな。まぁミロクは一番身近な子からチョコ貰ってるだろうし、本命が見ていないところで確認しておけよ」
シジュが「リア充めー」と冗談めかしてミロクを小突いていたが、当の本人は再びキョトンとした顔をしている。
「え?俺、家族以外からもらってないですよ。バレンタインのプレゼント」
「はい?」
「マジか」
平然とした顔のミロクから出た衝撃の告白。
オッサン二人は呆然としたまま、しばらく固まっていた。
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