132、氷の記憶が溶ける時。
「おはようございまーす」
「おはようミロク君」
「はよ、本屋寄っての出社か」
「いいの見つけましたよ。シジュさんも読みます?」
「アクションものなら読む」
昼過ぎに事務所に着いたミロクは、いつものように軽口を叩きながら周りのざわつきと、事務スタッフ達の忙しそうな様子に驚いていた。
事務所の奥で何やら作業しているヨイチは珍しくネクタイを締めている。普段はシャツとスラックスという格好が多いが、上着まで着ているのは来客があるのだろうか。
シジュはデニムにTシャツ、カジュアルなジャケットを羽織っていた。椅子を逆に座り、行儀悪く背もたれに顎を乗せている。
「なんか今日ありましたっけ? イベントとか?」
「いや、これは昨日の僕らの影響でね……」
「俺らのライブが動画サイトでアップされていたらしいぜ。でもそれが何で大騒ぎになるんだ?」
苦笑するヨイチに向かって問いかけるシジュも、ミロクの少し前に事務所に来たらしく騒ぎを見て驚いている。
「広まった原因は分かるけど、問い合わせがすごくなるのは予想外だったよ」
「原因分かってるんですか?」
「そりゃ決まってるでしょ。サイバーチームだよ」
「「ああ……」」
ヨイチの表情がうつったかのようにミロクもシジュも苦笑する。かのチームの暗躍っぷりは、もはや現代の忍びとも言えよう。
「ああ、それとミロク君にお客さんが来ているんだよ」
「え? 俺にですか? もしかしてそのスーツって……」
「ミロク君はそのままで大丈夫。僕は一応社長だから着たけどね。相手も社長さんだって言うし」
「え?」
柔らかく微笑むヨイチとは対照的に、シジュは顔をしかめて身構える。
「おい、それって変な人間じゃねぇよな」
「まさか。ちゃんと『確認』してから奥に通しているよ。そうじゃない人間はここに入れないからね」
キラリと輝くその笑顔に、シジュは「そりゃそうだな」とあっさり警戒を解く。ミロクは確認って何だろうと思いながらも、自分への客ということで居住まいを正した。
「会議室へ行けばいいですか?」
「一応、僕も付いて行くよ」
「俺も行く」
「ありがとうございます」
一人ではない事にホッとして微笑むミロクを見て、二人のオッサンも頬を緩めた。
(ああ、そうか)
会議室に入ったミロクは、奥に座っている壮年の男性が立ち上がる姿を見ると、心の中で妙に納得していた。
(今朝の夢は、この事を知らせようとしていたのかもしれないな)
どこか他人事のようにその男性を見るミロクは、ヨイチとシジュが驚くほどに無表情だった。彼のその表情に一瞬怯えたような顔をした相手だったが、恐る恐る問いかける。
「大崎君かい?」
「……はい。お久しぶりです」
その何もない表情に、温度はまったく感じられない。彼をこんな顔にさせるとは、ヨイチは後悔の念を、シジュは怒りが心に沸く。
しかし、そんな彼らに構うことなく、その男性はミロクの元に駆け寄った。
「大崎君。 大崎君。痩せているが健康そうだ。ああ、良かった。やはり君は君の才能を如何なく発揮できる場所に居るべきだったんだね」
ミロクの両手を握り、崩れ落ちるように膝をついたその男性を見て、ミロクの表情はくしゃりと歪む。まるで氷が溶けるかのように、その綺麗な目からはポロポロと涙が落ち、二人の手を濡らしていく。
「私はね、君が営業に来るのを楽しみにしていた人間の代表なんだよ。あの会社から君が辞めたと聞いて取引もやめようと思ったけどね。それは違うと思ったんだよ」
「すいません、俺……」
「分かっている。分かっているよ。取引先である私達に挨拶なく辞めたのを申し訳ないと思っているんだろう。それは違う。誤解があったんだ」
「社長、それはどういうことですか?」
声を押し殺して泣くミロクの背をシジュは無言でさすり、ヨイチは冷静に問いかける。
「大崎君はリストラされる前に、パワーハラスメントやモラルハラスメントを受けていた。相当辛い思いをしていただろう。そして彼の取引先から大きな損害を受けたとして、彼の体型や性格などを始め、酷い言いがかりで彼を辞めさせたんだ」
「大きな損害?」
「大きな損害などは無かったんだよ」
「「「え?」」」
思わず三人揃って声を出す。その様子に男性は「仲良しだね」と笑顔をみせた。ミロクは涙に濡れた頬をそのままに、ほけっとした表情をしている。そのままへたりを腰を落とした。
(損害は、無かった?)
忘れていた、いや、心を守ろうとしていた自分が、無意識に思い出さないようにしていた記憶がよみがえる 。どす黒い感情と共に、体を切り刻まれるような辛い記憶。
確かあの時、元上司は言っていた。
大きな損害が出たから、それは会社が肩代わりすることになったと。
そして、取引先の人達が、こう言っていたと聞いた
お前のような『だらしない体の人間』は信用できない、と。
何故、ミロクが元上司の言葉を鵜呑みにしたのか。
少し考えればおかしいと分かるような事だが、その時のミロクは心を病み、思考能力もほとんど無い状態であった。
夕日の中、気の合う人達で集まってお茶を飲む。
こうやって時間を過ごしていれば、この日は残業になると分かっていた。それでも取引先の人達は皆優しく、ミロクは何も気にせず人として笑顔でいられる時間はとても貴重で、優しい時間だったのだ。
そんな人達から裏切られたと、そう思ってしまった。
「社長さん、ごめんなさい。俺は貴方達を信用せず……」
「あの状況の君を責めることはしない。君が急に居なくなった理由も後から聞いて愕然としたくらいだ。酷い話だと思ったよ。でもね、君を見つけた時に今なら会えると、そう思ったんだよ」
男性は目尻のシワを深めて、ひと粒涙をポロリと落とした。
「孫の文化祭で君を見た時、すぐに思い出した。営業に来る君は不思議な魅力を持っていて、その日の事務所は華やいで、高い茶菓子を出したり商品サンプルを用意したりしたもんだ。まったく同じだったよ。昔も今も、君は本当に魅力的な人間だ」
ミロクの黒髪をくしゃりと撫で、彼の後ろにいるヨイチとシジュに頭を下げる。
「彼に会わせてくれて……彼と私を救ってくれて、ありがとう」
お読みいただき、ありがとうございます。
ちょっと、時間がかかりました。
少し忙しくなりそうです。
出来るだけ更新が止まらないようにしたいのですが、お休みしたらすみません。
無理せず頑張ります。
とりあえず、風邪は治さないとですね(^_^;)




