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22・歯車(2)

「夕食はまだなのでしょう。食べていきなさい」

 水広宝珠の一言で、妙な組み合わせの三人が夕食を囲むこととなった。

 ヒロは目立たないように廊下に引っ込んだきりだったが、Dは動じることなく自分の役を愉しんでいた。

 老女の財産を狙う腹黒い孫か否かを吟味する役回りなのだ。善人面をしている刑事の化けの皮を剥げるかもしれない。こんな面白いことはない。

 Dは張り切っていた。

 こうして、屋敷に盗みに入った女怪盗Dとそれを追う警視庁刑事である氷室慎司が向かい合わせに座り、その間に女主人、水広宝珠が夕食の席につくことになったのだった。

「和美さんはいつまでこちらに?」

言葉と共に、氷室の冷たい視線がDに注がれた。

暗に早く帰れと言っているのか。氷室は明らかに和美の存在を疎んじている。予想外の滞在者に一時は動揺を見せた氷室だったが、落ち着きを取り戻して冷静に計画を練り直しているに違いない。

氷室に財産がらみの思惑があるのだとすると、家族同然の扱いを受けている和美の存在は邪魔にちがいない。氷室はどういう行動に出るだろうか。

Dはヒレ肉のステーキを口に運びながら、あれこれと考えていた。

いつもの質素な食事と違い、肉をふんだんに使用した豪華な洋食で、通いの家政婦の料理の腕が素晴らしいことはよくわかったが、氷室の言動を注意深く観察しながらの晩餐のため、Dは味わうことができなかった。宝珠だけが若い娘のようにはしゃいでいた。

「私の誕生日まで和美さんが居てくれるっていうから、久しぶりに賑やかにしようと思ってね。それで、慎司さんは来てくれるかしらねえ」

「勿論来ます」

 氷室はDを追い払う秘策が思いつかないのか、苛立しさを隠しきれず、笑顔はかなりぎこちなかった。だが、孫が来てくれたということで舞い上がっている宝珠は、そのことに全く気づいていないのだった。

「それと……あなたのお父さんは、どうかしらねえ」

 宝珠は控えめに訊いた。

「……わかりません」

 氷室は言葉に詰り、顔が少し陰った。

「そう。一応訊いてみてくれるかしらね」

 宝珠の声には落胆の色が滲み出ていた。

どうやら、孫の氷室は過去のことにはわだかまりがないようだが、息子はそうではないらしい。それとも、財産を手に入れるために取り繕っているだけなのか。

Dは氷室の言動を注意深く分析した。

「宝珠様、ワインはいかがですか」

 黒いスーツ姿のヒロが宝珠の横に立った。

氷室は見慣れない使用人に冷ややかな視線を向けた。

「お婆様、新しく雇ったのですか?」

「ええ、中野も年だからねえ。力仕事に困るからね。中原洋なかはらひろしさんよ」

 氷室はじろりとヒロを見たが、ヒロは動じずに無表情で軽く頭を下げた。

「お婆様、人を雇うときは私に相談してください。今の若者は危ない奴がいますからね」

ヒロは氷室に好印象を与えなかったのだろう。氷室は宝珠にそう進言した。

「慎司さんは心配性ね。洋さんは大丈夫よ」

 宝珠はころころと笑った。氷室は面白くなさそうに口を一文字に閉めている。

 氷室は宝珠と他者の交流を阻止しようとしているようだった。周囲から口出しされないようにして財産を掠め取ろうというのか。

Dは揺さぶりをかけてみることにした。

「私、お婆様の誕生日が終わっても、ここにいようかしら。お部屋は沢山余っているのでしょう。お一人で寂しそうだし」

「あら、それは嬉しいわねえ」

「そんなことをしたら和美さんの親が心配するのでは?」

「大丈夫よ。両親はお婆様のところに住むといったら安心してくれるわ。私は失業中だから、お婆様とのんびり過ごせるし」

「いくらでもいてくれてもかまわないですよ。どうせ、年寄りの一人暮らしですからねえ」

 宝珠はちらと氷室の顔を盗み見た。

「そんなに寂しいのでしたら、私がここに住みましょうか」

 氷室が身を乗り出して競り合うように言った。

「そうかい。二人共ここに住んでくれるなんて嬉しいねえ」

 宝珠は即座にそう言って話をまとめてしまったのだった。

 Dの挑発に乗った氷室と、調子に乗ってできもしないことを口走ってしまったDは、宝珠の意外な発言に思わず息を呑んだ。

 いまさら引っ込みがつかない。

 宝珠の背後にいたヒロは、Dをじろりと睨んだのだった。

晩餐は、それぞれの思惑がありながらとんでもない方向に進んでしまったのだ。

  

 その頃、アリアは硬い表情で姿見の前に立っていた。

そこには、ベージュ色の地味なスーツ姿の女性が映っている。

 氷室慎司の指示通りに行動するしかないのだ。

アリアは自分を納得させるように、何度も心の中でそう呟いていた。

昨日、柚子が出て行ったあとに十無と氷室が訪ねてきたとき、アリアは冷静を装っていたが、実のところ氷室に何を要求されるのかと、心臓が飛び出しそうなほど緊張していたのだった。

そんなアリアに、十無に当て付けるように寄り添った氷室は、穏やかな表情とは裏腹に、脅し文句を囁いたのだった。

「お前が捕まれば、東十無の刑事生命は終わりだ。言うとおりにしろ」

その言葉に動揺したアリアだったが、この時点では、自分は怪盗Dをおびき出すための布石に過ぎないのだと思っていた。

だが、数分後、再び姿を現した氷室は、不敵な笑みを浮かべて優しくこう言ったのだ。

「言い忘れたことがあって戻ってきました。あなたにはふさわしい生活があるのだから、こんな生活を長く続けていてはいけない。お母様も心配しておられる。そのために、会っていただきたい人がいます。勿論、女性の姿で」

 このとき、アリアはようやく気づいたのだった。

氷室の背後に美原なながいるのだと。

「刑事さんの目的は、Dを逮捕することではないのですね」

 アリアは確認するように訊いたのだった。

「言った筈ですが。私の目的はあなただ、と。つまり、私の妻になってもらうということです」

 氷室にどんな得があるのか、アリアには今も理解できなかったが、美原ななと何か取引をしたのだろうということは想像ができた。

そのことを誰にも相談できないアリアは不安を抱え、朝まで一睡もできなかったのだった。

不安に駆られたアリアは、柚子に電話しようと夜中に何度も携帯電話を手にしてみては、そのたびに思いとどまった。

氷室のことを話せば、柚子は心配してもどってきてしまうだろう。自分がしっかりしなければならないのだ。

だが、アリアは夜が明けてからとうとう柚子に電話をかけてしまった。

 柚子の声を聞くだけでいい。元気な声を聞いたらすぐに電話を切ろうと思ったのだが。

――迎えに行けない。

突き放すような言い方をしてしまった。柚子は不安になったに違いない。

いつかは言わなければならないことだが、今その必要はなかったのだ。そんなことを言うために電話したわけではないのに。

 心細いはずの柚子に、追い討ちをかけてしまった。

アリアは柚子の声を聞いたとたん、つい氷室のことを相談してしまいそうになったのだ。それではまずいと思い、慌てて電話を切ったのだった。

一人で解決するしかないのだ。

柚子は昇に預けたから大丈夫だ。ヒロはDといるのだから心配ないだろう。十無と昇にも迷惑をかけられない。

自分のことはどうでもいい。自分さえ指示に従えば皆を巻き込まずに済む。

アリアは繰り返し自分にそう言い聞かせながら、うつろな表情で出かける支度を終えた。

それで全て上手くいくはずなのに、独りになったアリアは寂しさに押しつぶされそうになっていた。

誰も頼ってはいけない。

これから氷室慎司の指定した場所に行き、指示通りに振舞わなければならないのだ。

そうするしかない。

アリアはローヒールのパンプスを履いて、強張った表情で重い玄関扉を開けた。

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