40. 彼女を失った痛手(※sideダリウス)
クラリッサが出て行ったドアを、俺は呆然としたまましばらく見つめていた。
何だ今のは。あれは誰だ……?俺の知ってるクラリッサじゃない。クラリッサは……もっと従順で大人しかった。優しさの塊みたいな女だったじゃないか。なぜこの俺にあんなに冷たくなった?俺の言うことなら何でも聞いて、俺が褒めれば可愛らしく頬を染めて満面の笑みを浮かべる……。俺が全てと言わんばかりに、いつも俺中心に動いていた、あのクラリッサは、一体どこへ行ってしまったんだ……。
「………………。……クソ……」
まぁ、それもそうだ。仕方がないと言えば仕方がない。こちらから婚約破棄を言い渡し、互いの家は裁判で揉めに揉めている。昔と変わらずにと言う方が無理があるんだ。冷静に考えれば分かることだ。
……だが…………。
(それじゃ困るんだよ。なら俺はこれからどうすればいいんだ。これから卒業まで、いくつの試験やらレポートが待っていると思っているんだ。乗り切れなければ留年だぞ。ディンズモア公爵家の息子であるこの俺が、留年……。…父に殺される……)
しかも留年したところでその後どうなる見込みもない。俺は元々座学は全くできないんだ。入学する時はディンズモア公爵家の息子だからと多少なりとも忖度してもらえていたんだろうが、さすがにここまで全ての科目がちんぷんかんぷんでは卒業なんてさせてもらえないだろう。
クラリッサに見捨てられた俺は途方に暮れた。クソ。何だよあいつ。婚約者でなくなったとしても、せめて俺に愛想良くしていれば友人関係ではいられたものを……。それとももう完全に縁が切れてもいいってことか。あんなに俺のことが好きだったくせに……。
どうする。アレイナは全く当てにならない。あいつも勉強は得意ではないんだ。自分のことで精一杯だろう。というか、大抵の生徒はそうなんだ。それが普通だ。他人の分まではいはいとやってくれる奇特な人間などクラリッサを措いて他にはいないだろう。
改めて、あいつはすごい女だったのだと理解した。そばにいて言うことを聞いてくれることが当たり前だったから、そのありがたみに気付いていなかったが……。
いなくなったらこんなに困ることになるとは。
「……しょうがない……。金の力を使うしかないな……」
「ええっ?!ご冗談は止めてくださいよダリウス様。いくらダリウス様の頼みでも、そんなの無理ですよぉ。俺だって試験前はいっぱいいっぱいなんですからね」
「だから!そこを何とか頼むって言ってるんだよコナー。俺たちの仲じゃないか。な?何もタダでやれとは言ってない。小遣いならたっぷり弾むからさ。な?このとおりだ!!」
「……。……いや、マジで無理です……、すみませんけど…」
「…えぇっ?!翻訳と作文と自由課題を、ぜ、全部?!」
「金なら出すって!頼むよデニス!お前結構頭良いんだから二人分くらいどうにかなるだろう!」
「なるわけないじゃないですか!自分の分だけでもギリギリですよ!もっと余裕がありそうな人に頼んだらどうですか?成績トップの、ほら、ジェニング侯爵令嬢とか…、……あ」
「そっちが無理だからお前に頼んでるんだよ!!」
「そ、そっか…。だけど俺もたぶん無理です。自分の分だけで提出期限ギリギリですよ。すみません」
もう泣きそうだった。取り巻き連中が誰も助けてくれない。あいつらめ……どいつもこいつも役立たずばかりだ……!
(クソ…、こうなったらもう仕方がない…。まるっきり親しくもないが、…一応あの男に話を持ちかけてみるか…)
うちの学年ではクラリッサと成績を争うレベルの秀才。ほとんど話したこともないが、もう後がない。ここは下手に出て泣きついてみるとしよう…。
「……ほーーぉ……。なるほどねぇ…。ではこれまでは、あなたはジェニング侯爵令嬢に代わりにやってもらってどうにか切り抜けてきていたと……ほーーーーぉ。またそれはそれは…………ふ、…ふふふ…」
(…チッ。感じ悪いなこいつ…)
嫌味ったらしく腕組みをして足まで組んで、ニタニタと笑いながらそう言ってきたこいつ、ネルソン・ラトリッジ伯爵令息に心底腹が立つが、今はブチ切れている場合じゃない。こいつに断られれば俺は一巻の終わりだ。
白くてまん丸いあばた面の不細工な男にヘラヘラと媚びへつらう惨めさをグッと堪えて、俺は素直に言った。
「そうなんだよ…。いやぁ参ってしまって…。もう頼れる秀才は君しかいないんだ。な?頼むよラトリッジ伯爵令息。君の評判は知ってるよ。何でもご一家は代々教職者で秀才揃いなんだろう?君も毎回見事な成績だそうじゃないか。その能力でどうか卒業までこの俺をサポートしてくれないか?」
「んで?毎回それなりの額は払ってくれると?」
「もっ、もちろんだ」
「うーーーん……、まぁ全然出来なくはないんだよなぁぁ。今回の試験範囲ももうすでに全科目完璧に整えてあるし、提出物は全部仕上がっているしなぁ」
「ほっ!!本当か!さすがだ!すごいな!天才だ!!」
「ん~~~~~。どうしようかなぁ~~」
「………………っ、」
おい!黙ってとっとと引き受けろこの不細工め!!俺を誰だと思っているんだ!ディンズモア公爵家のダリウス様だぞ!本当ならお前のような伯爵家風情の不細工がこうして俺と二人きりで話をしてもらえることなんて一生ないんだ!身の程を知れ!!
「ラトリッジ伯爵令息、君だけが頼りだ。どうかこのとおり…」
「…………んで?いくら出せるって?」
デカい態度に苛立ち腸を煮えくり返らせながらも、俺は静かに金額を指で示した。
するとラトリッジのヤツはふん、と鼻で笑いながら首を振ると、信じられないような金額を指で示し返してきたのだ。
「っ?!は?!ひ、ひゃく……っ、…馬鹿を言うな!無理に決まってるだろそんなの!!」
思わず素が出てしまい怒鳴りつけると、ラトリッジ伯爵令息は一瞬ビクッとなったものの、すぐに尊大な態度を取り戻した。
「……ならもういいよ。他を当たってくれ」
「く………………っ!!……ああ、分かった。分かったよ。その額を払う。その代わり、全部!完璧に!代行してくれよ!分かったな?!」
「……何だよ、その態度は。それが人にものを頼む時の態度なのかい?僕は別にいいんだよ、断ったって」
「~~~~~っ!!……悪かった。…よろしく頼むよ、ラトリッジ伯爵令息」
「ふん。しょうがないなぁもう」
「……………………。」
クソ……ッ!!こんな小物野郎にまで下手に出なくてはいけないとは……!!屈辱の極みだ……!!
クラリッサを失った痛手はあまりにも大きかった。だが俺がそのことをさらに痛感するのは、もっと後になってからのことだったのだ。




