僕は小説を書く者ではない 小説を書くことが出来る者である
4月7日(日)
その昔。ビートたけし氏が、たぶん北野ファンクラブという番組だったと記憶しているが、自分の仕事の流儀のようなことを話していた。
「魚は泳ぐ。魚が泳ぐことに理由なんかない。魚は泳ぐ時に努力なんかしていない。魚はただ泳ぐ。『フィッシュ スイム』なのだ。魚は泳ぐことが出来るのではない。『フィッシュ キャン スイム』ではない。同じような言葉だけれど意味合いが違う。行動にCANがくっついているヤツはダメ。することが出来るなんて自慢気にほざいているうちはダメ。俺は人を笑わせることが出来るのではない。俺は人を笑わせるのだ。俺は映画を撮ることが出来るのではない。俺は映画を撮るのだ。魚は泳ぐ。俺は映画を撮る」
言い回しはおぼろげであるが、だいたいこんなことを言っていて、若き日の僕にはとてもインパクトがあった。
世界のホームラン王、王貞治氏は、現役時代、合宿所で夜中になっても一人でバットを振り続けていた。同室の選手が「どうして寝る前にまで素振りを?」と聞くと、「バットを振らないと眠れないんだ!」と答えたという。
ビートたけし氏といい、王貞治氏といい、努力を努力と思わない者のことを、人は天才と呼ぶのであろう。
文学の世界も同じではないだろうか。芥川や太宰や三島や川端は、小説を書いた人であって、小説を書くことが出来た人ではない。彼らは魚が泳ぐように必然的に、おのれが原稿用紙に向かうことが、まるで自然の摂理であるかのように、物語を生み出し続けた。彼らには僕が想像し得ない海底の世界を、まるで見て来たかのようにありありと書き表す能力があった。若き日の僕は、魚が泳ぐように小説を書く彼らに魅了をされた。
では、ひるがえって、僕がここで小説を書くという行為は『フィッシュ スイム』であろうか? と自問自答をしてみる。あはは。まさか。僕の行為は紛れもなく『フィッシュ キャン スイム』である。僕が孤高の天才であろうはずがない。僕は群衆のなかの一人だ。歳を取ると、それぐらいのことは現実を踏まえて冷静に判断できる。また自分が魚ではなく、市営プールでビートバンに掴まってバタ足をしている保育園児であることを認めることから始めなければならないという自覚もある。
僕は魚が泳ぐように小説を書けない。ただし、市営プールで泳ぎの練習をしている保育園児のように書くことなら出来る。人として、いつか魚のように泳いでみたいと、日々努力をしている。人として、いつか自力で海の底を覗いてみたいと、熱望をしている。
僕が書いた物語たちは、しょせんはSNSという大海原の藻屑のような存在である。でもその藻屑が、いつか誰かの心の岸辺にたどりつくかもしれない。いつかあなたの心の波打ち際を行ったり来たりするのかもしれない。そんなことを想像すると、僕はそこに海賊船で大航海をするのと同等のロマンを感じるのだ。ゆえに魚のように泳ぐカタチではないただの人として、群衆のなかの一人として、時に息継ぎをしながら、時に大波に翻弄されながら、時に仲間と助け合いながら、それでも懲りずにこの大海原を、これからも滑稽に泳いでみようと思うのである。
僕は小説を書く者ではない。小説を書くことが出来る者である。何か問題でも? 最高じゃないか。




