ポップな存在
2月16日(金)晴れ
昨日の日記で「なろう」のことをジョークを交えて否定的に書きました。ただし、誤解をしないでいただきたいのは、「なろう」が本気でイヤいならば、現在ここで執筆しているはずなどないのであって、始めた頃に「なろう」の作風に面食らったというのはこれ紛れもない事実なのであるが、ただそれだけのお話であって、他意はないのである。
もともと僕は、郷に入ればいともたやすく郷に従ってしまう性分で、置かれた環境には我ながら驚くほどすぐに慣れます。ベンチだろうが道端だろうが自室のベットのごとく熟睡できるタイプです。というわけで、今では良くも悪くも「なろう」に肩までどっぷり浸かっています。
「なろう」を知ってから、行きつけの本屋をあらためて見渡してみると、ライトノベルと呼ばれる書籍が、店の主要な場所を大きく占めているのが分かる。あれを見ると「なろう系」をはじめとするライトノベル小説が現代の出版業界を支えていることを痛感させられる。あと、漫画ね。それに比べて、僕の好きな純文学小説は、新刊以外は、本屋の片隅に追いやられている。
考えてみれば――昔の「真田十勇士」とかの講談本ってあるじゃん。猿飛佐助や霧隠才蔵の漫画絵が表紙に描かれているやつね。あれって、今のライトノベル小説にかなり近い存在だったのではないかと思う。ライトノベル小説が、漫画やアニメやゲームとの関連性ありきで成立するように、昔の講談本も、講談やお芝居との関連性ありきで成立していたのだろう。たぶんきっとそう。
そもそも、芥川や三島や川端などの純文学だって、昔はもっとポップな存在だったと思うんだ。少なくとも、現在のように一部の文学好きが狭苦しいコミュニティで眉間にシワを寄せ合い読むものでは絶対になかったと思う。もっと大衆的で、例えば、夏目漱石の「こころ」だって、四畳半アパートの古畳の上にポーンと無造作に転がっている日常的な代物だったのではないかな。それはまるで令和の子供部屋に転がっているファンタジー小説みたいに。
そこらへんのことを踏まえて、今の文学界を忖度なく見渡せば、「なろう系」をはじめとしたライトノベル小説が、現代文学の主流であることは、悔しいけれど間違いない。
まったくもって恐れ入る。まったくもって脱帽である。まじホントすげー。
でもだからと言って、自分が好んでライトノベル小説を書くかってえと、それはまた別の話なのだけれども。
では、また明日。




