詫び寂び
4月2日(火)雨
昨年亡くなった義父が、陶芸品の収集家だった。終活なんて微塵もしなかった人だから、たくさんの茶碗や器を遺してこの世を去った。うちにいつまでも置いておく場所もないので、いずれは売ってしまうと思われる。
まあ、こういう陶芸の世界ってのは、見る人が見ればってやつでね。
だって千利休なんかよ、その昔、朝鮮半島の農家にごろごろ転がっていたガラクタ拾ってきては、「侘び寂び」という付加価値をこじ付け、信長や秀吉に高額販売していたというし。お抱えの作家たちにゃ、わざと「ふちの反った茶碗」「ゆがんだ茶碗」「ひずんだ茶碗」を作らせたっていうしね。
てか、小説も考えてみりゃ陶芸品みたいなものかもしれんね。エッセイとかもそうだけど、自分の性格の常識や正論からの「微妙なズレ」を、丁寧にお伝えしようと心掛けているようなところが、僕なんかは確かにある。
みなさんの作品を読む時も同じで、その作者の、ゆがみ方がいかに面白いか? ひびの入り方がいかに魅力的か? 壊れ方がいかに独特か? みたいな部分を楽しませてもらっているのかもしれん。
もちろん、ただぶっ壊れてりゃいいってもんじゃーねーから、そこが実に微妙なところなんすけどね。
というわけで、僕は、義父の遺した陶芸品を見ながら、利休の茶器のような「詫び寂び」のある作品が書ける作家になりたいなあ、なんて思いましたよ。ええ、確かに思いました。




