自分の物差しでしか自分を測れないようになったら
3月3日(日)晴れ
年を取ると、自分を叱ってくれる人は少なくなる。
その理由は、人生の先輩たちがお年を召して亡くなったり、職場から順番に退職したり、自分が社会的な地位を築いたりなど様々だが、着実に年々少なくなっている。これは自然の摂理だ。
それに付随して、若い頃に自分に立ちはだかった親や教師のように、問答無用で僕を指導し、こちらの間違いを強引に軌道修正する存在が少なくなった現状においては、よほどの自己批評眼を持っていないと、気付かないうちに世間からズレている、という自覚もある。
自分を俯瞰視できているか?
自分を他人の物差しで測れるか?
よくよく注意をして社会で立ち回らないと、気が付けば裸の王様になっている。
では、ひるがえって、この年になっても、若い頃と変わらず、まわりにガンガン叱られながらおのれを軌道修正していく生活が理想かというと、それはそれでちょっと違う。
生物的に年々頭は硬くなるし、社会的功績にプライドは正比例するものだ。うちの社長なんか、いまだに僕を新人の頃と同じように頭ごなしに叱るけれど、部下の前でやられると正直言って最近はなかなかしんどいものがある。明らかに「叱られること」への免疫は低下している。
大切なことは、そんな自分を認めること。自分だけはいつまでも若い。自分だけは他の年寄りとは違う。などとうそぶかないこと。また、まわりの中年も自分と同じ状況であることを認めてあげること。若い頃のように頭ごなしに注意をされれば、素直に「はい」と言えなくなる年齢であるということをお互いが認め合うこと。
その上で双方にとって最善のコミュニケーション法は何かを考える。
中年や年寄りは人生経験だけはあるから、事の流れから自分に非があるか否かぐらい簡単に判断が出来る。ただその注意のされ方にカッとなり「馬鹿にされた!」「プライドが傷付いた!」「非は認めるけれども、その言いかたはないだろう!」みたいなことで憤慨している人がほとんど。
要は、伝え方が重要なのだ。
――そんなこんなで、
自分を俯瞰視できているか?
自分を他人の物差しで測れるか?
自分の物差しでしか自分を測れないようになったら、もう成長はないぞ!
と、日々、自戒している今日この頃なのです。




