心の使い方
2月27日(火)晴れ
「メンタル強いっすね」「ストレスとかないんすか?」みたいなことを、よく人に言われる。
でも、僕は、もともと強い精神力を持った人間ではない。僕にだって、ガラスの十代はあった。現在の精神力は、長いサラリーマン生活で作り上げた人工的な代物である。
他人の考え方はどうあれ、僕は、心というものは、肉体と対極にあるものではないと思っている。心だって、体の一部。目、鼻、口、心だ。頭、尻、骨、心だ。手、足、心だ。深づめ、耳たぶ、ビール腹、心だ。あ、この場合の心とは、もちろん心臓のことではないよ。
頭を使うように心を使う。手先を使うように心を使う。肉体を使うように心を使う。なんと言うかその、心を道具化すると言うか。心に翻弄されることなく、むしろ常にマウントをとってコントロールしていたいと言うか。
過酷な仕事に挑む時「こんなことして何になる?」「いつまでこんな仕事を続けるつもりだ?」「馬鹿らしい」「やってられない」「遊びたい」「楽をしたい」てな具合に、心はいつも僕の邪魔をする。そういう甘えた心は仕事の妨げになるだけなので、そんな時は、自分の心を胸からポーンと取り出して、机の傍らに置き、みずからを機械化して仕事にかかる。
逆に、自分を叱咤激励したり、部下の業務成果に感動をしたり、愛する妻や家族と過ごす時などは、心を胸にしっかりと戻し、ほかほかに温めてから使う。
まあ、そんな簡単に割り切れたら世話ねえやって話しなんすけどね。
心を道具化するなんていうと、どえらいサイコパスに聞こえるかもしれないが、いや、決してそういうんじゃなくて、要するに、心だって使い方次第と言うか。心だっておのれを成す部位のひとつに過ぎないのだから、特別扱いはしねえぞって言うか。
あれ、僕、なんかすごく冷たいこと言っている?
んああ、し、しまった 心、うっかり家に忘れて来たああ。




