第二話 推しが隣の部屋に引っ越してきた。
八月下旬。
高校二年生の夏休みがもうすぐ終わりを迎えようかという頃。
俺は父さんから衝撃的なニュースを聞かされた。
この度、俺の父さんが再婚するらしい。
俺の家……黒川家は、俺がまだ物心つく前に母さんが亡くなって以来、長年父子家庭だった。
父さんがいつも遅くまで働いてくれたおかげで生活には不自由なく、学校にも問題なく通えている。
その代わりにここ数年、家事は俺がほぼすべてやっていた。
だけどきっと、その状況にも変化が訪れるだろう。
二人暮らしにはやや広かったこの一軒家に、新しく母と姉になる人が引っ越してくるからだ。
新たな家族を迎える準備を大急ぎで整えて、あっという間に迎えた八月三十一日。
夏休み最終日の午後に、新たな母と姉が黒川家にやってきた。
1階にあるリビングで、テーブルを囲んで四人で話す。
父さんと俺が先に軽い自己紹介を済ませた後、次に口を開いたのは新しい母だった。
「それでは改めまして……この度、拓郎さんと結婚しました、佳乃と言います。旧姓は藤原ですが……これからは黒川佳乃ですね」
拓郎さんとは父さんのことだ。
その父さんの再婚相手である佳乃さんは、おっとりとした雰囲気の女性だ。
二人の出会いは仕事の関係らしい。
年は大きく離れていないと聞いたけど、四十代後半の父さんと比べると、佳乃さんはかなり若く見える。
……よくこんな美人を捕まえてくることができたな、俺の父さんは。
なんにせよ、男手一つで俺を養ってくれた父さんも、ようやく新たな幸せを見つけることができたってわけだ。
そんな父さんを祝福してあげたいという気持ちが、俺の中に浮かんできた。
そのために俺ができることは、新しい家族に慣れることだ。
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ。葵くん……って呼んでもいいかしら?」
「はい、どうぞ」
「それと、私のことはできればお母さんって呼んでくれると嬉しいわ」
「わかりました、お母さん」
これから家族になる人なんだから、こう呼ぶのがふさわしいだろう。
俺が応えると、佳乃さん改め、お母さんは嬉しそうにしていた。
「じゃあ次は私の番かな?」
続いて声を上げたのは、お母さんの隣に座る、俺の新しい姉だ。
「私は丹音! 今年で二十歳の一応大学生! 私のことは好きに呼んでくれていいけど、できればお姉ちゃんがいいな」
とても明るくて、派手な髪色をした年上の女性というのが、丹音さんの第一印象だった。
そして何より、今まで会った人の中で一番美人と言っても過言じゃない。
その外見もさることながら、俺は別の部分がもっと気になっていた。
(……何故かわからないけど、聞き覚えのある声なんだよな)
改めて、丹音さんの顔を見る。
見覚えは……ないはずだ。
いや、でも待てよ。
この髪の色はどこかで見た記憶がある。
ブルーのインナーカラー。
そして、丹音という名前。
もしかして、この人は……。
「おーい、弟くん? 聞いてる?」
「あ、はい。その……いい声ですね」
「ありがとう。昔は子役としてドラマに出たりもしてたから、声のトレーニングもしてるんだ」
なるほど。
でも、何故「してた」じゃなくて「してる」なんだろう。
「それは今もボイトレしてるってことですか?」
「え? あー、うん。まあそんな感じ」
なんだろう。
妙に歯切れが悪いというか、はぐらかされたような気がする。
不思議だけど、今は詳細を教えてくれるつもりはないんだろう。
よく分からないけど……何はともあれ、この先家族としてうまくやっていけたらいいな。
きっとその中で、もっと踏み込んだ話をする機会もあるだろうし。
顔合わせの後、一緒に夕食を食べた。
新しく母になった佳乃さんの手料理だ。
(他人の手料理なんて、いつ食べたのかも分からないくらい久々だったな)
ああいうのが、家庭の味ってやつなんだろうか。
父子家庭で育った俺はここ数年、自炊するようになっていたけど、まだまだあの域には及ばないな。
そんなことを、俺は二階にある自室に戻って振り返る。
俺の部屋は六畳ほどの広さで、机の周りにはゲーミングパソコンとマウスやキーボードなどやたら光るデバイスが置いてある。
それに加えて、推しであるニノンのグッズがいくつか飾られているのが特徴だ。
俺はまだ高校生なので、グッズの数は限られているし配信中の投げ銭なんて当然できない。
月々の小遣いやお年玉などでなんとかやりくりしている状況だ。
この部屋で一番の高級品であるゲーミングパソコンに至っては、中学二年生の時に向こう五年分の誕生日プレゼントとして、父さんに頼み込んで買ってもらった。
そんな調子で、厳しいお財布事情を抱えた高校生の俺だけど、自分なりにゲームと推し活を満喫していた。
「さて、今日もやるか」
俺はパソコンの電源をつけて、机の前に座る。
何をするかといえば、ゲームだ。
ここ数年は「Predators」という世界的にも人気なバトルロイヤル形式のシューティングゲームを毎日プレイしている。
俺にとって、ゲームはただの趣味じゃない。
プロゲーマーになって世界大会で優勝するという目標が、俺にはある。
最近ではそのために、同じ歳の友人二人とチームを組んで、いつも決まった時間に練習に取り組んでいる。
「まだ少し早いけど……先に一人で何戦かやっておくか」
デスクトップ画面からゲームを起動して、ヘッドセットを頭に付けようとしたその時。
『弟くーん、ちょっといいかな』
丹音さんが、俺の部屋を訪ねてきた。
俺はゲームを始めようとしていた手を止めて、返事をする。
「どうぞ、入ってください」
「急に来てごめんねー、ちょっと頼み事があって」
部屋に入ってすぐ、丹音さんは申し訳なさそうにそんなことを言ってきた。
「全然問題ないですけど……頼み事って?」
「パソコン関係の機材を色々持って新しい私の部屋に引っ越してきたのはいいんだけど、配線とか設定がよく分からなくてね」
「それで、手伝ってほしいってことですか」
「そういうこと! 弟くんなら手伝ってくれるってお父さんから聞いたんだけど、確かに詳しそうだね」
丹音さんは机の方まで一直線に歩いてくると、椅子に座る俺のすぐ近くに立ってパソコンや周辺デバイスに興味深そうな視線を向ける。
今更だけど、この人と二人だけで話すのは初めてだな。
ついでに言うと、この部屋に異性が入ってきたのも初めてな気がする。
って、丹音さんは姉だからノーカン……でいいのか?
「お、このキーボードって最近出たやつだよね。私も買おうか迷ってるんだー。使い心地はどう?」
くだらないことを考えている間にも、丹音さんは次々と話しかけてきた。
俺の肩に手を添えて、もう片方の手をキーボードの方に伸ばしてくる。
……いや、距離が近すぎないか。
女の人って普通こんな感じなんだろうか?
異性と関わることに対してあまり耐性がないので、こうもグイグイと来られると反応に困るし、妙に緊張してしまう。
「どうって……それは」
「あ、急に色々聞いちゃってごめん。とりあえず先に、頼み事に対しての返事を聞いてもいいかな?」
「パソコン周りの設定を手伝うって話のことなら……別にそこまで詳しいわけじゃないけど、いいですよ」
俺としては、新しい家族と良好な関係を築けたらいいと思っていたところだ。
だから簡単な頼み事くらい、快く引き受けようと思って返事をしたら、予想外の反応が返ってきた。
「ありがとう!」
丹音さんは勢いよく俺の手を取って、握りしめてきた。
「……!?」
い、いきなりなんだこれ。
普通のきょうだいがどんな感じでコミュニケーションを取るのか、俺は知らない。
だけど、分かる。
これは普通の距離の詰め方じゃない。
(いや、落ち着け俺……!)
相手は姉、きょうだいとして交流を深めたい以上の意味はない。
ただ、ちょっとコミュニケーションが積極的すぎるだけの話だ。
それにしても……丹音さんの手、柔らかいな。
俺の意識が明後日の方向を向いていたその時。
「あ、お、弟くん、VTuberとか好き……なんだ?」
ふと、丹音さんの視線が、近くの棚に置かれたグッズに向けられた。
VTuberニノンのアクリルスタンドだ。
「……はい、まあそうですね」
もしかして、オタクっぽい趣味に引かれたとか……?
でもVTuberだと分かるってことは、丹音さんも興味を持っている可能性がある。
いや、それ以上の何かがあるのかもしれない。
丹音とニノン。
ここは一つ、鎌をかけてみるか。
「そのVTuber、ニノンって名前なんですよ」
「へっ……!?」
俺の手を握り締めたままになっていた丹音さんの手が、露骨に揺れ動くのを感じた。
この様子は、もしかすると本当に俺の予感が当たっているのかもしれない。
かと言って、この場でこれ以上追及しても答えは得られないだろう。
だったら、決定的な証拠を掴みに行こう。
幸いにも、パソコン周りの設定を手伝うという理由がある。
「とりあえず、丹音さんの部屋に行きましょうか」
「……そうだね」
握っていた手をようやく離し、うなずく丹音さんはどこかぎこちない様子だった。
俺の部屋のすぐ隣の部屋。
長らく物置代わりになっていたその場所は、今日から丹音さんの部屋だ。
机やベッドなどの家具は既に引越し業者によって設置済みだが、まだ大量の段ボール箱が床に積まれている。
その一部は封が開いており、パソコンや高そうな機材が梱包材の隙間から見えていた。
(ものすごく、見覚えのある機材だ……)
VTuberのニノンは、配信などで使用している機材を一通り紹介している。
ニノンを推しているからと言って、どんな機材を使っているかなんて誰でも把握しているわけじゃないだろう。
しかし俺はプロゲーマーを志す程度には本気でゲームに取り組んでいるため、パソコン周りのデバイスについては敏感だった。
だからこそ、丹音さんの所持する機材が全て俺の推しが使用するそれと一致している事実にすぐ気づいた。
「やっぱり、Vtuberのニノンさんですよね?」
「な、なんのこと?」
丹音さんはとぼけようとしてきた。
……この人、嘘が下手だな。
「丹音さんとニノンって、同じ名前ですよね」
「……偶然の一致だね!」
「初対面の時から声が似てるなって思ってたんですけど、似てるんじゃなくて同じですよね」
「私みたいな声質の人、よくいるって言われる……かも?」
あくまでしらを切るつもりらしい。
だったら、この辺りで畳み掛けるか。
「さっき俺の部屋にあるグッズを見た時も変な反応していたし、使ってる機材は丸被りだし……一応ニノンを推してるので、さすがに分かります」
「……」
丹音さんは黙り込んで、目を逸らした。
しかし、やがて諦めたようにため息をついた。
「そっか、うん……言われてみれば、あまり隠せてなかったね」
「なんか、秘密を暴いたみたいですみません」
「まあ、配信で活動していること自体はいずれ話すつもりだったから、気にしないで。VTuberとしての具体的な名前は伏せるつもりだったけど……いやー、まさか弟くんが私を推してたとは、予想外だったね」
「これもニノンの知名度が広まっている証……ってことかもしれません」
少し申し訳ない気持ちを抱えながら、俺がちょっと冗談っぽいことを言ってみた、その時。
「うん。自分で言うのもなんだけど、最近人気と知名度がそこそこの勢いで上昇しているので……ニノンの正体については、私と弟くんだけの秘密ってことでお願いしていい?」
丹音さんが、両手を合わせてお願いしてきた。
なんだその仕草。
不覚にも、かわいいと思ってしまった。
そして、何より。
推しと自分だけの秘密。
とても危なっかしくて、それでいて魅力的な響きだ。
「分かり……ました」
俺は高鳴る心臓の鼓動をどうにか抑えながら、絞り出すような声で返事をした。
「良かったー……ありがとう弟くん。あ、そう言えば今更確認するのも遅い気がするけど、呼び方は弟くんでいいよね? 実際にきょうだいになったわけだし」
「まあ、そうですね」
安堵するや否や捲し立ててくるとか、やっぱり勢いがすごいな。
「そういうわけなので、他人行儀な話し方はやめよう!」
「他人行儀……ですか?」
「そう、それ! 弟くんもタメ口でいいよ!」
「それはちょっと、会ったばかりの年上の人に対して礼儀が欠けているというか」
あと、推しに対して馴れ馴れしく接するのは気が引けるというか。
「えー、お姉ちゃんが相手なのに冷たいなあ……」
俺がタメ口の要求を否定すると、丹音さんはしゅんとした表情を浮かべた。
うっ。
現実とアバターじゃ違うけど、こんな感じの表情をしたニノンを配信で見たことがある。
これは、落ち込んでいる時に見せる顔だ。
現実の丹音さんから、確かに感じるニノンの面影。
推しにこんな顔をさせるなんてファン失格だろう、俺。
「……分かったよ、姉さん」
根負けした俺が丁寧口調をやめた途端、丹音さん……改め姉さんが笑顔を浮かべた。
「わーい、弟くんがタメ口で話してくれた! 本当はお姉ちゃん呼びが良かったけど……そこは一旦いいか」
なんだこの代わりようは。
「もしかして、あの落ち込んだ顔は演技か……?」
「へへ、ごめんごめん。嘘も方便ってやつ?」
どうやら俺は、コロコロと変わる姉の表情に、翻弄されてしまったらしい。
……でも案外、悪い気はしないな。
何故だろうと考えて、すぐに答えに行き着いた。
「……この感じ、配信中のニノンと同じだ」
そう。
配信で見たニノンと、現実の姉さんの接し方が、同じノリだったからだ。
やけに距離感が近くて馴れ馴れしくて、だけど何故か不快さがない、むしろ心地いいとすら感じるあの雰囲気。
「配信のことを持ち出されると……ちょっと照れるね」
「そういうものなんだ」
「うん。だけどこの感覚も新鮮で楽しいかも! これからきょうだいとして、一つ屋根の下で仲良くしていこうね、弟くん!」
微妙に際どい言い回しな気がするのは、なぜだろう。
ちょっと引っかかる部分もあるけど、何はともあれ。
こうして俺は、推しのVTuberの弟になった。




