この世は舞台 :約2000文字
とある昼下がりの電車内。乗客の数はそこそこ。大半は座席に腰を下ろし、スマートフォンの画面を指でなぞったり、目を閉じたりしている。窓から差し込む柔らかな陽光が床に光の図形を落とし、車体は一定のリズムで揺れていた。レールを刻む規則的な振動音がどこか眠気を誘う。そんないつも通りの穏やかな――
「なあ、馬鹿ばっかりじゃないか? 世の中! 馬鹿ばっかりじゃないかあ!」
突如として、その穏やかな空気を怒声が切り裂いた。
一人の男が立ち上がり、声を張り上げたのだ。車内の時間が一瞬止まった。乗客たちは反射的に肩を強張らせ、男へ視線を向けたが、すぐに足元や窓の外へと逸らした。
「いい加減にしろ、この野郎! 全部わかってんだよ!」
ヤバい人だ――皆、そう認識したのだ。車内に沈黙が広がり、妙な連帯感が生まれた。
男はそんな空気をまるで意に介さず、通路を行ったり来たりしながら、言葉を吐き散らし続けた。
「駄目だろ! このままじゃ日本、乗っ取られるぞ! 駄目だろ……なあ、駄目だろ! 駄目だろ! ハルマゲドンが起きるぞ!」
「――くん?」
「馬鹿に投票権を与えるな! 裏金議員に投票するアホばっか――ん?」
男がある女性の前で喚いていた、そのときだった。女性が少し身を乗り出し、男の顔をまじまじと覗き込んだ。そして、はっとしたように目を丸くし、弾んだ声で言った。
「――くんでしょ。久しぶりー!」
「え、ああ、咲子さん……」
「懐かしー! 高校以来だよね? 元気してた?」
「あ、う、うん……ははは……」
「今、何してるの?」
「えっ、今? 電車に乗ってる……」
「あはは! そうじゃなくて、お仕事とかだよ。ほんと、相変わらずおもしろーい!」
「あっ、ああ、あはは……咲子さんは、えっと、大学行って、東京の会社に就職したんだよね?」
「うん、そうだよー。誰かから聞いたの?」
「いや、SNSで見て……あ、いや、その、検索したとかじゃなくて、たまたま、たまたまね。その、知って……」
「ふふふ、何慌ててるの? 見てくれたの嬉しい」
「そ、そう? ははは、でも、もう何年も更新してないよね? やめちゃったの?」
「ううん。あれ、本名でやってたやつだから。やめて、新しく作り直したの」
「あっ、へー! ネットリテラシーだね。監視されたりするかもしれないからね。そのほうがいいね、うん」
「監視?」
「あ、いや、なんでもない。ははは……」
「ふふ。それで、今何してるの? なんか、さっき叫んでたみたいだけど……」
「あー……あー……劇団!」
「劇団?」
「そうそう、こういう不特定多数の人がいるところで稽古するもんなんだよ。度胸つけるためにね」
「すごーい! 役者なんだ! どんなのやるの?」
「んー……まあ、シェイクスピア系だね、うん」
「そうなんだー! じゃあ、それも衣装なんだね。ホームレス役?」
「え、いや、違うけど……」
「じゃあ、お母さんにまだ服を買ってもらってる人の役?」
「ははは、なんだよそれー……。面白いなあ……。あっ、ちなみに主演ね」
「えっ、すごーい! チラシとかないの? サイトは?」
「あー、まあ、それは追々といいますか……ところで、SNS、今なんて名前でやってるの?」
「えー、あたしのことなんていいよー。それより、なんて名前の劇団?」
「いやあ、それは……つーか、隣座ってもいい? ちょっと歩き疲れちゃって」
「あっ、ダメ。ごめんね」
「えっ、なんで?」
「彼氏が座るから。ほら、来た」
「おう。トイレめちゃ遠かったわ。……ん、誰?」
「高校の同級生! 天然系で面白いんだよ」
「へえー、どうもー!」
「ど、どおうもおおううう……」
「えっ……大丈夫? この人……」
「もちろん。優しいし、今、役者やってるんだって」
「うううう……結局! おれは損してばかり! そんな人生! 馬鹿ばっか!」
「へー、ヒップホップ系?」
「ううん、シェイクスピア系なんだって」
「お前ら全員おかしい! 気の流れがよくない!」
「スピ系?」
「ううん、だからシェイクスピア系」
「政治だ! 政治政治政治! ろくな考えもなしに投票するから! 国がもうもうもうもう壊れる!」
「政治系の話?」
「わかんない。シェイクスピアって、よく知らないし」
「このままでいいのか! いけないだろ! 問題だろ!」
「熱量がすごいなあ」
「ねー。いつもこんな感じで練習してるみたいだよ」
「無知無知無知無知無知ばかりで、この世は真っ暗だ!」
「あっ、次の駅だよね?」
「うん」
「今が最悪! 最悪最悪! これからもっと最悪!」
「緊張するなあ」
「ふふふ、大丈夫だよ。うちの両親、絶対に喜ぶから」
「ホレイショオオオオオォォォオ!」
「ふふ、よし、ビシッと決めるか」
「うん! あっ、――くん。またねっ! 役者頑張ってね!」
「あ、はい……」
電車が減速し、滑り込むように駅へ到着した。扉が開き、二人は微笑み合いながらホームへ降りていった。
車内に残された彼は、その背中が見えなくなるまで、じっと目で追っていた。やがて力が抜けたように視線を落とすと、静かに彼女が座っていた席に腰を下ろした。
少しだけ尻を浮かせ、手のひらを差し入れて座面をそっと撫でる。そして彼はぽろりと涙をこぼし、小さく呟いた。
「悲しい役だなあ……」




