悪女の真実と覚悟
嫌い。嫌い。大嫌い。
大人も子どもも。男も女も。父も母も。
あたしは人が嫌い。怖い。気持ち悪い。
だけど誰よりも、誰よりも。
あたしは、あたしが大嫌い。
あたしはマノン。ただのマノン。
日雇い労働の父さんと、元娼婦の母さんの子ども。平民の中でも、あんまりお金のない家に生まれた。体の弱い弟がいたから、余計にお金がなかった。だけど父さんも母さんも、あたしを愛してくれていて、弟は可愛かった。
よく覚えてないけど、貧乏でも、それなりに幸せだったんじゃないかなと思う。
ううん。それはあたしの願望で、本当は生まれた時から歪んでたのかも。
だってあたしは悪魔の子。魅了の魔法を持ってたから。
魔力があるとか魔法が使えるとか、魔道具を使うか魔法使いに見てもらわなきゃ分かんない。どっちにしてもお金がいるし。だから普通の平民、とりわけうちみたいに貧乏な平民は、魔力があって魔法が使えるかどうかなんて知ることができない。
だからあたしも両親も、周りの人も、誰も意味分かんなかった。
どうして誰もがあたしをちやほやしようとするのか。
どうして誰もがあたしに気に入られようとするのか。
どうして誰もがあたしを‥‥‥。
熱っぽい目で見るのか。
触ろうとするのか。
自分のものにしたがるのか。
大きくなっていくにつれ、あたしに向けられる周りの感情が、変になっていった。
道を歩くと、やたらと誘拐されそうになる。母さんとしっかり手を繋いでいるのに、隙を見て引っ張られたり。通行人のおじさん、露天商のおじさん、若い男の人も、やけに変な目であたしを見てくる。
同年代の男の子だって、あたしと手を繋ぎたがって、触りたがる。
嫌い。怖い。気持ち悪い。
嫌なのにお前が誘ったんだと言われる。違うと言っても信じてくれない。
あたしは外を歩くのが怖くなった。父さんと母さんは仕事があるから、家で弟と二人で過ごすようになった。
だけどある日、家に近所のおじさんがやってきた。熱っぽい目であたしを見て、手を伸ばして、触ってきた。
「やだぁぁぁああ!」
あたしは泣き叫んだ。弟も大声で泣いた。そこへたまたま父さんが早く帰ってきて、おじさんをあたしから引き剥がして殴った。血が出るまで殴った。
近所の人たちが騒ぎを聞きつけて集まった。おじさんは言う。
「あいつが悪い!」
近所の人たちも言った。
「あの子といると変になる。あれは魔女だ!」
あたしたち家族は、そこに住めなくなった。
逃げるように家を出て、別の家に落ち着いて。また騒ぎになって、家を出る。
弟は前より熱を出すようになった。お金は前よりなくなった。どこにも落ち着けない。父さんと母さんはとても疲れて、よく喧嘩をするようになった。
ごめんなさい。あたしが悪魔だから。魔女だから。ごめんなさい。
そんな時、ちょび髭の貴族がやってきた。父さんと母さんの生活と、弟の薬代を出してあげるから、あたしを養子にしたい、と。
あたしは、ちょび髭の貴族――トリュフォー男爵の養女になった。
そしてあたしは、はじめて知った。あたしは魅了魔法が使えることを。
周りの人を変にしていたのは、無意識に魅了魔法を使っていたからだということを。
男爵はあたしにいい服を着せ、礼儀作法を習わせ、魔法の練習をさせた。特に魅了魔法の制御の練習は厳しかった。できなければ鞭で打たれた。言葉遣いも仕草も、もっと男を誘うようにと。服は胸を強調するもの。宝石は派手に。化粧は濃いものを。
ある程度こなせるようになったら、あたしを社交界に連れ出した。
パーティ―であたしは、男爵の命令通り、練習した魅了魔法を色んな貴族令息にかけた。あたしの魅了魔法はとても強い。貴族令息たちはあたしの操り人形になった。
誰かに魅了魔法をかけて、誰かの心を壊すたび。あたしの中で何かが壊れた。大切な何かが死んだ。
だけどあたしに拒否権はない。嫌だと言ったら、家族は‥‥‥。
父さんと母さんの生活を壊したのはあたし。弟の体を壊したのはあたし。
だからあたしの心が壊れるくらいどうってことない。悪いのはあたし。
「次のターゲットはこの男だ」
シモン・オベール・ド・ゴール。この国の王太子。
あたしは震えた。王太子は今までのターゲットとはわけが違う。破滅の音がする。
ああ、でも、今さらか。
どうせあたしは壊れてる。心が死んでる。
「分かりました。その代わり、両親と弟に一生困らないお金をあげて、どこか遠くで暮らさせてください」
「いいだろう。十分な金を持たせて隣国に移住させてやる」
そしてあたしは、次のパーティーで王太子に魅了魔法をかけた。
**
容姿も剣も頭も凡庸で、愚直で陰気な王太子。それが世間一般の王太子の評価。
だけどあたしの第一印象は違った。
強くて怖くて優しい人だと思った。静かな灰色の目が全てを見透かしていて、だけどあたしと同じ匂いもした。
なんとなくこの人に魅了魔法はかけたくないと思った。でも家族のためにかけなくちゃいけない。
距離が近い方がかかりやすいから、あたしは挨拶を装って、王太子に近寄った。
「‥‥‥っ」
魅了魔法をかけると、灰色の目を微かに見開いて、あたしに視線を合わせた。失敗した!
慌ててもう一度、今度はもっと強く魔法をかけた。王太子は無表情のままあたしから視線を外して、何事もなかったように他の貴族と談笑を交わした。
ちゃんとかかったら目や表情が少しぼんやりするし、あたしの命令を待ってからじゃないと動かない。また失敗した。
嘘でしょ。これでもきかないなんて。
魔法抵抗は感じなかったから、魔法耐性や魔道具で防いだんじゃない。自分の意思だけで跳ね返したんだ。なんて強い人なんだろう。
終わった。
あたしは血の気のひいた顔をなんとか取り繕って、そっとパーティー会場を抜け出した。中庭に出たところで。
「待て。マノン・トリュフォー男爵令嬢。俺と取引をしないか」
王太子に呼び止められた。
「何のことでしょお?」
男爵に仕込まれた甘ったるい声で、あたしはすっとぼけた。
どうしよう。どうしたらいい?
取引って何? 何を考えてんの?
どうやったら、家族が危なくなくなる?
父さんと母さんと弟の顔が浮かんだ。
あたしがドジを踏んだら、男爵は家族をどうするだろう。
男爵に逆らった人たちがどういう道を辿ったか、あたしは知ってる。男爵が見せたから。嫌だと目をそらしても、あたしの髪を掴んで無理矢理見せたから。
ひどい暴力を。ひどい破滅を。ひどい絶望を。
逆らったらお前も、お前の家族もこうなるんだぞ、と言って。
男爵に壊されて、ぴくりとも動かなくなった人の虚ろな目を見て、あたしは思った。
あたしとおんなじ目をしてるって。
「君の家族は必ず助ける。価値のない俺の命ではなく、弟の名にかけて」
今。あたしの前に立つ王太子の目を見て思った。
この人も一緒だ、って。
だからあたしは王太子の手を取った。
**
ごめんね、シモン様。
あの時あたしと同じだって思っちゃって。
あたしの破滅に付き合わせちゃって。
あんたはあたしとは違う。
あんたはまだ、壊れてない。死んでない。
だってあんた、分かってる?
あんたが婚約者を見ている時。あんたが弟を見ている時。従者と言い合ってる時。
あんたの目には、希望の光があって、優しさがあって、決意があるんだよ。
だからあんたは壊れなくていい。破滅するのは、あたしだけだ。あんたとの取引は成立しない。
あんたを共犯者にはさせない。罪を犯すのはあたしだけだ。
「隣国に向かう男爵の馬車が、ヴァスール公爵令嬢によって襲撃された。君の家族は無事に保護されたぞ」
シモン様から報告を受けた後。
「ごめんね」
あたしはシモン様の隙をついて、今までにないくらい強い魅了魔法をかけた。
シモン様はあたしと浮気してるふりをして、婚約者に冷たくして、弟と他人みたいに接して、従者を遠ざけて。ものすごくすり減ってる。
それでも誰か他の人がいたら絶対に油断しないけど。共犯者だったからかな。あたしと二人きりの時はほんのちょっとだけ、気を抜く瞬間があるんだ。
魅了魔法は意思の強い人にはかかりにくい。
でもあたしはずっと訓練を受けてたから、どんなに意思の強い人だって操れた。男爵のひどい拷問に耐えた人でさえ、あたしの魅了魔法には逆らえなかった。
悔しくて恨めしいことに、一番かけたい男爵本人は魔道具を肌身離さず持っているから、操れなかったけど。
執務机に向かって、ぼうっと動きを止めたシモン様にあたしは囁いた。
「キスして」
シモン様の豆で硬くなった両手があたしの頬を優しく掴んで、少し冷たい柔らかい唇がおでこに触れた。
――成功、した。
正気のシモン様なら絶対にこんなことしない。二人だけの時、シモン様はあたしに指一本触れない。
それはシモン様の真面目さでもあるし、婚約者への一途な愛でもあるし、本当は男嫌いのあたしへの配慮でもある。
「‥‥‥っ、仕事に戻って」
色んなものが溢れそうになったあたしは、シモン様から離れた。気持ち悪い男たちにキスはたくさんされたけど、こんなに優しいキスは知らない。
しっかりして。あたしに泣く資格はない。
ぎゅっと目をつぶって、あたしはおでこに手を当てた。この優しさと冷たさを忘れたくなかった。今だけは許してよ。
どれくらいそうしていただろう。
ずっと心地よく響いていたシモン様のペンの音がぴたりと止んだ。
「どうしましたぁ? シモン様」
まさかと思うけど、魅了魔法が弱まったのかとシモン様の様子を探る。
「いや。何でもない」
シモン様はぼんやりとした顔と目で、再びペンを走らせた。
難しいところでもあったのかな?
しばらく注意深く様子を見ていたけど、不審なところはなさそうだった。もう大丈夫。
「シモン様ぁ。私飽きちゃったから帰りますね」
「ああ。政務があるから送れないが」
「大丈夫ですぅ」
あたしはシモン様を残して執務室を出て、離宮に向かった。
「マノン・トリュフォー男爵令嬢」
「あら。ベネディクト様。ごきげんよう」
良かった。声をかけてくれた。
あたしはほっとした。あたしはシモン様みたいに人の動きを予測するとか、狙い通りに動かすとかできないから。会えますようにって祈りながら来ただけだった。
「君に名を呼ばれるいわれはない」
シモン様の弟は、硬い声と冷たい表情で、あっという間に近くまで来た。
怖いくらいに整った美貌。どっしりと根を張った大木のシモン様と違って、弟は極限まで研がれて光る刃物みたいだ。
「兄上に何をした?」
長くて綺麗な手があたしの手首を掴んだ。空気が重くなる。
怖い。
今まで感じてきたものとは違う恐怖にあたしは動揺してしまった。すぐに剥がれそうになった張りぼてをかぶり直す。
あたしはマノン・トリュフォー男爵令嬢。男をたぶらかす悪女。破滅させる悪魔。
救いはいらない。
シモン様は言ってた。弟はシモン様より賢くて何でもできるんだって。何でもできるのに努力もするんだって。魔法もすごいんだって。
シモン様より魔法耐性があるはずだし、シモン様みたいに努力家だったら意思も強いはず。それにさっきかけた魅了魔法はシモン様より弱いから。簡単に跳ね返せる。
跳ね返して気付いてくれるはず。あたしがシモン様に魅了魔法をかけたって。
「‥‥‥」
「嫌だわ。何もしてませんよぉ」
ほら。評判通りの悪女でしょう?
だからお願い。悪い魔女からシモン様を救って。
「失礼。呼び止めて悪かった」
手首から、シモン様の弟の手が離れた。シモン様と同じ、豆で硬くなった手だった。
**
断罪のあの日は心が痛かった。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。
辛い言葉を言わせて。誰よりも大切な人を傷つけさせて。
でもここはあたしの晴れ舞台だから。
魔女の断頭台だから。
もう少ししたら、めでたしめでたしだから。
「触らないで!」
伸ばされたシモン様の手を、あたしは力いっぱい跳ねのけた。
あたしなんかに触っちゃ駄目。あんたは綺麗なんだから。
あんたは何にも悪くない。関係ない。
全部全部、騙して魅了した魔女のせいなんだから。
「この間抜け! あんたなんて最初から好きでも何でもない。男爵に言われたから構ってやっただけなんだから!」
「そうか」
そう。それでいいの。
あとはシモン様の弟が、あたしの魅了魔法を暴いて、あたしを断罪すれば。
それでみんな、ハッピーエンドなんだから。
**
それなのに、なんで。
「マノン!!」
「マノンッ!!」
「姉ちゃん!」
どうして。
「父さん母さん、クロード!!」
あたしにまで、ハッピーエンドが用意されたんだろう。
ああ、シモン様。あんたは本当に評判通りの馬鹿だね。あんたの弟も、婚約者も、みんなみんな馬鹿だ。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。
今までいっぱいごめんね。
ありがとう‥‥‥っ。
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