完璧な弟の違和感
僕の世界は、兄上だけだった。
ベネディクト・ベルジュ・ド・ゴール。
オベール王家を名乗れない、愛妾の子ども。それが僕。
シモン・オベール・ド・ゴール。
唯一の正統な王子。それが兄上。
母上は元踊り子で、パーティーで踊りを披露した後、国王に手折られた。産後の肥立ちが悪く、母上はずっと臥せっていた。
正妃によく思われてない、母上の庇護も実家という後ろ盾もない第二王子。扱いは推してしるべしだ。
母上はずっとベッドの上で、僕を抱く力もなかった。
か細くて死んでしまいそうな母上は、息をするだけで精一杯だ。侍女は最低限の世話をするだけ。
だけど、一人だけ。僕を構う人がいた。
兄上だ。
ぐいんと引っ張って乱暴に抱き上げる。不安定で荒っぽい抱き方で、黙って背中を叩いたり、ぐしゃぐしゃと頭を撫でたり、頬をぐりぐりと触る。何度か落とされて泣いた記憶もある。
でも怖くなかった。
兄上は温かいから。
僕が4歳になった時、母上が亡くなった。
よく分からないけど、悲しかった。寂しかった。心細かった。
泣いていると、王妃殿下が手を回したのか、王妃殿下の不興を買うのを恐れて自発的にいなくなったのか。いつの間にか世話をしてくれる侍女がいなくなっていた。
涙と力が出なくなって、母上みたいに寝ていると、兄上がきた。見たことのない怖い顔で、僕をいつもみたいにぐいっと抱いて走った。大人たちに怒って喚いた。侍女たちは戻ってきた。
それから何日か、僕が走り回れるようになるまで、ずっと側にいてくれた。嬉しかった。
兄上が僕の世界の全てだった。
僕は兄上とずっといたくて、後をついて回った。兄上は嫌がりも怒りもせず、僕が追いつけるようにゆっくり歩いて何度も振り返ってくれた。
大きくて、何でも知っていて、何でもできる兄上。
大好きな大好きな兄上。僕の兄上。僕の世界。
だから兄上にはじめて勝ってしまった時。世界が壊れる音がした。
嬉しさよりも誇らしさよりも、恐怖を感じた。
大好きな大好きな兄上。僕の兄上。僕の世界。
大きくて、何でも知っていて、何でもできる兄上。
そんな兄上でいてほしい。僕はずっと兄上の後ろをついていきたい。
何よりも、兄上に嫌われるのが怖い。
あの不器用な優しさを、温かさを失いたくない。
僕は、授業以外での修練や勉強をやめた。授業も適当にこなした。
「手を抜くな! ベネディクト! お前まで俺を馬鹿にするのか! 俺を侮辱するのか!」
そうしたら、はじめて兄上に怒られた。
兄上に、嫌われた‥‥‥っ。
「あ‥‥‥に、うえ。僕、そんなつもりは」
体全体から血の気が引いて、世界が冷たくなった。
僕は憎まれても当然の、愛妾の子だ。兄上を脅かす存在だ。要らない子だ。
兄上に嫌われたら、もう‥‥‥。
震える僕の肩に、兄上が両手を置いた。
「いいかベネディクト。俺はお前が俺よりできることが誇らしい。お前の努力が嬉しい。だからお前は俺よりできる弟でいろ。努力をやめるな」
僕を見つめる兄上の目は、どこまでも真剣だった。肩に置かれた手は温かかった。
「ごめんなさい」
泣き出した僕を兄上が抱きしめた。頭を撫でて、背中を叩いてくれた。
僕は手を抜くことをやめた。前よりも努力するようになった。
天才だ、傑物だと言われる僕の力を、兄上のために使うと誓って。
「あの時の誓いは、今も変わらないんですよ、兄上」
離宮の端で、マノン・トリュフォー男爵令嬢を待ち伏せながら、僕は独り言ちた。
17になった今でも、僕の誓いは変わらない。
兄上は優しい人だ。清く公平で。器の広い人だ。
だからマノン・トリュフォー男爵令嬢と一緒に歩く兄上を見た時。ありえないと思った。
兄上がオレリア以外と関係するなんて!
マノン・トリュフォー男爵令嬢。元平民で、聖女の力を持っているがために男爵家の養女に迎えられた少女。あの王妃殿下に気に入られた女。聖女の力は弱く、オレリアに仕事を押し付けて自分の功績にしている女。複数の貴族令息との関係が囁かれ、彼らを顎で使う女。
その女が今は王太子をたぶらかしている。
ありえない。絶対に何かある。
というか、なんとなく兄上の考えそうなことは分かる。僕は兄上だけを見てるんだから。
「マノン・トリュフォー男爵令嬢」
「あら。ベネディクト様。ごきげんよう」
マノン嬢が離宮を通りかかるのを見計らって、僕は声をかけた。僕は許可なく離宮を離れられないし、僕の離宮は人が少ない。
マノン・トリュフォー男爵令嬢。小柄だけどメリハリのある肢体。挑発的な赤い瞳。蠱惑的な赤い唇。オレリアが柔らかな春の陽ざしなら、マノン嬢は熱気の残る夏の夕焼けだった。
「君に名を呼ばれるいわれはない」
冷たく詰め寄ると胸のあたりがピリッとした。何だ? 何の魔法だ。
瞬時に解析する。魔法に関して僕の右に出る者はいない。正体を突き止めるのはすぐだった。
「兄上に何をした?」
威圧をかけて手首を掴む。
さきほどかけられたのは魅了魔法だ。魔力が桁違いの僕は、高い魔法耐性と防御を持っているから効かないが。兄上は違う。
これで兄上を操ったのか、この悪女め!
「‥‥‥」
マノン嬢の赤い瞳が揺れた。挑発的な色がはがれ、怯えが走り、それを夜の帳のような闇が隠す。
さきほどのピリッとした刺激とは違うざわつきが胸に飛来した。
この目は何度も見たことがある。兄上だ。
一緒に授業を受けている時、最近では政務を手伝っている時。王妃殿下と会った後。兄上は不安になるような暗い目をする。全てを諦めて、消えてしまいそうな、自分を消しそうな、底の見えない闇が降りる。
そんな時僕はどうしようもない。だって兄上の闇の原因は僕だから。
どうしてマノン嬢が兄上と同じ目をするんだ。
僕は激しく動揺した。他人に兄上を重ねたのははじめてだ。
「嫌だわ。何もしてませんよぉ」
マノン嬢がにぃっと微笑んだ。年下なのに蠱惑的で、やけに女を感じさせる嫌な笑顔。兄上と似ても似つかない。だけど。
「失礼。呼び止めて悪かった」
掴んでいた手を離すと、マノン嬢は綺麗とはいえないカーテシーをして立ち去った。掴んだ手首は、思いの外細かった。
華奢な後ろ姿を見送り、僕は確信した。
マノン嬢にも何かある。
考えろ。
兄上は魅了にかかっているのか。おそらく否だ。
確かに僕と違って兄上の魔法耐性は低いけれど。魅了魔法は誰でも思い通りに操れるような魔法じゃない。兄上のように意思の強い人にかけるのは無理だ。
兄上は魅了魔法を跳ねのけた上で、かかったふりをしている。何故だ。
トリュフォー男爵家と背後の王侯貴族を一網打尽にするつもりか。
でもそれだと、兄上とマノン嬢は破滅する。兄上は破滅するなら自分だけ、という人だ。他人を破滅に巻き込むだろうか。
マノン嬢が噂通りの悪女なら、可能性はあるだろう。
だけどマノン嬢のあの目。全てを諦めたあの目。
マノン嬢は、自分自身の破滅を知っている。
「二人は共犯者……か?」
兄上は自分を愚かで劣った人間だと思っているけれど。賢い人だ。
兄上が本気で策を講じたなら、それを破るのは並大抵なことじゃない。
「僕一人じゃ無理だ」
僕はずっと王妃から監視されている。僕についている貴族は兄上と敵対する貴族派ばかりで、頼ることはできない。かといって下手に王政派に助力を求めても、これ幸いと僕が破滅させられる。
僕自身が動くとして、監視の目をすりぬけて離宮から出ることはできても、情報収集が難しい。
あらゆる策と協力者と情報がいる。
『いいかベネディクト。俺はお前が俺よりできることが誇らしい。お前の努力が嬉しい。だからお前は俺よりできる弟でいろ。努力をやめるな』
「ええ、兄上。僕は兄上よりできる弟です。そう努力してきました」
覚悟してください。
僕は踵を返して、離宮の自室に戻った。




