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【連載版】愚かな王太子に味方はいない   作者: 遥彼方
愚かな王太子に味方はいない

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5/12

完璧な弟の違和感

 僕の世界は、兄上だけだった。


 ベネディクト・ベルジュ・ド・ゴール。

 オベール王家を名乗れない、愛妾の子ども。それが僕。

 シモン・オベール・ド・ゴール。

 唯一の正統な王子。それが兄上。


 母上は元踊り子で、パーティーで踊りを披露した後、国王に手折られた。産後の肥立ちが悪く、母上はずっと臥せっていた。


 正妃によく思われてない、母上の庇護も実家という後ろ盾もない第二王子。扱いは推してしるべしだ。


 母上はずっとベッドの上で、僕を抱く力もなかった。

 か細くて死んでしまいそうな母上は、息をするだけで精一杯だ。侍女は最低限の世話をするだけ。


 だけど、一人だけ。僕を構う人がいた。

 兄上だ。


 ぐいんと引っ張って乱暴に抱き上げる。不安定で荒っぽい抱き方で、黙って背中を叩いたり、ぐしゃぐしゃと頭を撫でたり、頬をぐりぐりと触る。何度か落とされて泣いた記憶もある。


 でも怖くなかった。

 兄上は温かいから。


 僕が4歳になった時、母上が亡くなった。


 よく分からないけど、悲しかった。寂しかった。心細かった。

 泣いていると、王妃殿下が手を回したのか、王妃殿下の不興を買うのを恐れて自発的にいなくなったのか。いつの間にか世話をしてくれる侍女がいなくなっていた。


 涙と力が出なくなって、母上みたいに寝ていると、兄上がきた。見たことのない怖い顔で、僕をいつもみたいにぐいっと抱いて走った。大人たちに怒って喚いた。侍女たちは戻ってきた。

 それから何日か、僕が走り回れるようになるまで、ずっと側にいてくれた。嬉しかった。


 兄上が僕の世界の全てだった。


 僕は兄上とずっといたくて、後をついて回った。兄上は嫌がりも怒りもせず、僕が追いつけるようにゆっくり歩いて何度も振り返ってくれた。


 大きくて、何でも知っていて、何でもできる兄上。

 大好きな大好きな兄上。僕の兄上。僕の世界。


 だから兄上にはじめて勝ってしまった時。世界が壊れる音がした。

 嬉しさよりも誇らしさよりも、恐怖を感じた。


 大好きな大好きな兄上。僕の兄上。僕の世界。

 大きくて、何でも知っていて、何でもできる兄上。

 そんな兄上でいてほしい。僕はずっと兄上の後ろをついていきたい。


 何よりも、兄上に嫌われるのが怖い。

 あの不器用な優しさを、温かさを失いたくない。


 僕は、授業以外での修練や勉強をやめた。授業も適当にこなした。


「手を抜くな! ベネディクト! お前まで俺を馬鹿にするのか! 俺を侮辱するのか!」


 そうしたら、はじめて兄上に怒られた。

 兄上に、嫌われた‥‥‥っ。


「あ‥‥‥に、うえ。僕、そんなつもりは」


 体全体から血の気が引いて、世界が冷たくなった。


 僕は憎まれても当然の、愛妾の子だ。兄上を脅かす存在だ。要らない子だ。

 兄上に嫌われたら、もう‥‥‥。


 震える僕の肩に、兄上が両手を置いた。


「いいかベネディクト。俺はお前が俺よりできることが誇らしい。お前の努力が嬉しい。だからお前は俺よりできる弟でいろ。努力をやめるな」


 僕を見つめる兄上の目は、どこまでも真剣だった。肩に置かれた手は温かかった。


「ごめんなさい」


 泣き出した僕を兄上が抱きしめた。頭を撫でて、背中を叩いてくれた。

 僕は手を抜くことをやめた。前よりも努力するようになった。


 天才だ、傑物だと言われる僕の力を、兄上のために使うと誓って。




「あの時の誓いは、今も変わらないんですよ、兄上」


 離宮の端で、マノン・トリュフォー男爵令嬢を待ち伏せながら、僕は独り言ちた。


 17になった今でも、僕の誓いは変わらない。

 兄上は優しい人だ。清く公平で。器の広い人だ。


 だからマノン・トリュフォー男爵令嬢と一緒に歩く兄上を見た時。ありえないと思った。

 兄上がオレリア以外と関係するなんて!


 マノン・トリュフォー男爵令嬢。元平民で、聖女の力を持っているがために男爵家の養女に迎えられた少女。あの王妃殿下に気に入られた女。聖女の力は弱く、オレリアに仕事を押し付けて自分の功績にしている女。複数の貴族令息との関係が囁かれ、彼らを顎で使う女。

 その女が今は王太子をたぶらかしている。


 ありえない。絶対に何かある。

 というか、なんとなく兄上の考えそうなことは分かる。僕は兄上だけを見てるんだから。


「マノン・トリュフォー男爵令嬢」

「あら。ベネディクト様。ごきげんよう」


 マノン嬢が離宮を通りかかるのを見計らって、僕は声をかけた。僕は許可なく離宮を離れられないし、僕の離宮は人が少ない。


 マノン・トリュフォー男爵令嬢。小柄だけどメリハリのある肢体。挑発的な赤い瞳。蠱惑的な赤い唇。オレリアが柔らかな春の陽ざしなら、マノン嬢は熱気の残る夏の夕焼けだった。


「君に名を呼ばれるいわれはない」


 冷たく詰め寄ると胸のあたりがピリッとした。何だ? 何の魔法だ。

 瞬時に解析する。魔法に関して僕の右に出る者はいない。正体を突き止めるのはすぐだった。


「兄上に何をした?」


 威圧をかけて手首を掴む。


 さきほどかけられたのは魅了魔法だ。魔力が桁違いの僕は、高い魔法耐性と防御を持っているから効かないが。兄上は違う。


 これで兄上を操ったのか、この悪女め!


「‥‥‥」


 マノン嬢の赤い瞳が揺れた。挑発的な色がはがれ、怯えが走り、それを夜の帳のような闇が隠す。

 さきほどのピリッとした刺激とは違うざわつきが胸に飛来した。


 この目は何度も見たことがある。兄上だ。


 一緒に授業を受けている時、最近では政務を手伝っている時。王妃殿下と会った後。兄上は不安になるような暗い目をする。全てを諦めて、消えてしまいそうな、自分を消しそうな、底の見えない闇が降りる。

 そんな時僕はどうしようもない。だって兄上の闇の原因は僕だから。


 どうしてマノン嬢が兄上と同じ目をするんだ。


 僕は激しく動揺した。他人に兄上を重ねたのははじめてだ。


「嫌だわ。何もしてませんよぉ」


 マノン嬢がにぃっと微笑んだ。年下なのに蠱惑的で、やけに女を感じさせる嫌な笑顔。兄上と似ても似つかない。だけど。


「失礼。呼び止めて悪かった」


 掴んでいた手を離すと、マノン嬢は綺麗とはいえないカーテシーをして立ち去った。掴んだ手首は、思いの外細かった。


 華奢な後ろ姿を見送り、僕は確信した。

 マノン嬢にも何かある。


 考えろ。

 兄上は魅了にかかっているのか。おそらく否だ。

 確かに僕と違って兄上の魔法耐性は低いけれど。魅了魔法は誰でも思い通りに操れるような魔法じゃない。兄上のように意思の強い人にかけるのは無理だ。

 兄上は魅了魔法を跳ねのけた上で、かかったふりをしている。何故だ。


 トリュフォー男爵家と背後の王侯貴族を一網打尽にするつもりか。

 でもそれだと、兄上とマノン嬢は破滅する。兄上は破滅するなら自分だけ、という人だ。他人を破滅に巻き込むだろうか。


 マノン嬢が噂通りの悪女なら、可能性はあるだろう。

 だけどマノン嬢のあの目。全てを諦めたあの目。

 マノン嬢は、自分自身の破滅を知っている。


「二人は共犯者……か?」


 兄上は自分を愚かで劣った人間だと思っているけれど。賢い人だ。

 兄上が本気で策を講じたなら、それを破るのは並大抵なことじゃない。


「僕一人じゃ無理だ」


 僕はずっと王妃から監視されている。僕についている貴族は兄上と敵対する貴族派ばかりで、頼ることはできない。かといって下手に王政派に助力を求めても、これ幸いと僕が破滅させられる。

 僕自身が動くとして、監視の目をすりぬけて離宮から出ることはできても、情報収集が難しい。


 あらゆる策と協力者と情報がいる。


『いいかベネディクト。俺はお前が俺よりできることが誇らしい。お前の努力が嬉しい。だからお前は俺よりできる弟でいろ。努力をやめるな』


「ええ、兄上。僕は兄上よりできる弟です。そう努力してきました」


 覚悟してください。

 僕は踵を返して、離宮の自室に戻った。

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