第六話 欠席者はいない
目を開けると、病棟の音はいつもと変わらなかった。
モニターの規則的なリズム、遠くで開閉されるドアの音、足音。どれもが、夜勤の終盤を告げる静かな合奏だった。
私は簡易ベッドから起き上がり、カーテンの外を見た。
ナースステーションでは、同僚たちが淡々と作業を続けている。誰も慌てていない。誰も困っていない。
時計を見る。まだ夜勤は終わっていない。
それでも、私の役割はもう終わっている。
「……おはようございます」
小さく声を出してみたが、誰にも届かなかった。
届かなかったというより、拾われなかった、の方が近い。
私は白衣を手に取り、袖を通そうとして、やめた。
必要がない。今の私は、配置されていない。
ステーションの端に置かれたパソコンの画面を覗く。
患者リストは更新され、対応者の名前が次々と切り替わっていく。私の名前は、どこにも出てこない。それでも、人数は合っている。
全員分、揃っている。
夜が明け始める頃、早番のスタッフが入ってきた。
挨拶が交わされ、引き継ぎが始まる。私の知らないところで、私のいない夜勤が、きちんと整理されていく。
「今夜も、問題なかったですね」
誰かが言った。
その言葉に、何人かが頷く。問題はない。
患者は守られ、事故もなく、記録も整っている。
私は、その輪の少し外側に立っていた。
誰かに「お疲れさま」と言われることもなく、誰かを見送ることもなく。
それが、不思議と自然だった。
引き継ぎが終わり、病棟が日中の顔に戻り始める。
朝の光が窓から差し込み、夜の緊張を薄く洗い流していく。
私はロッカー室に向かい、私物を取り出した。
鍵を閉め、振り返る。ここには、まだ仕事がある。
だが、それは私の仕事ではない。
廊下を歩きながら、これまでの夜勤を思い返す。
休みたいと言った人。体調を崩しかけていた人。不安を口にした人。
私はいつも、同じ言葉を使ってきた。
――他で回せる。
――全体を優先。
――欠席者は出せない。
その判断が、病棟を守ってきた。それも、事実だ。
だから今、私が外されても、何も言えない。
否定できない。間違いだったとも、言えない。
「正しかったんだ」小さく、そう呟いた。
誰に聞かせるでもなく。病院の自動ドアが開き、外の空気が流れ込む。
朝の匂いがした。コーヒーと排気ガスと、少しの湿り気。
私は外に出て、振り返らずに歩き出す。この病院は、今日も回る。
夜勤も、欠員なしで続くだろう。欠席者はいない。それが、この場所の強さだ。
そして同時に、その強さを保つために、誰が静かに外れていくのかも、私はもう知っている。
それでも、私は思う。あの判断は、正しかった。
今も、これからも。そう思えてしまう自分自身が、何より怖い。
欠席者はいない。
ただ、必要な人間だけが、そこに残る。病院の扉が閉まる音を背に、私はその結論を、否定しないまま受け入れていた。




