第五話 今日は不要です
夜勤の終盤に差しかかる頃、疲労は音もなく積もっていく。
眠気ではない。身体が重いわけでもない。ただ、判断の縁が少しずつ丸くなっていく感覚がある。普段なら引っかかる違和感が、滑っていく。
私はモニターの前に立ち、患者リストを確認していた。数字は安定している。
バイタルも落ち着いている。問題はない。問題がない夜勤ほど、判断は機械的になる。
「……少し、休みます?」
背後から声をかけられた。振り向くと、先輩が立っている。表情は柔らかい。気遣いの顔だ。
「大丈夫です」
反射的に答えた。
「まだ、いけます」
先輩は一瞬だけ私を見て、それから頷いた。
「じゃあ、無理はしないでね」
その言葉に、胸の奥がわずかにざらついた。
無理をしないで。私は何度、その言葉を人に向けて使ってきただろう。無理をしないために、外す。無理をさせないために、配置しない。
ナースコールが鳴る。私は画面を確認し、対応者を割り当てる。指が自然に動く。
迷いはない。いつも通りだ。
その直後、軽いめまいがした。視界が一瞬だけ滲む。私はデスクに手をついた。
「……平気?」
同僚が覗き込んでくる。
「ええ」
私は言った。
「少し立ちくらみです」
それは嘘ではなかった。だが、真実でもなかった。
同僚は私の顔を見て、すぐに判断したようだった。
「今日は、もういいんじゃない?」
「え?」
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「他で回せるよ」
「今夜、落ち着いてるし」
「あなた、ここまでで十分やった」
優しい声だった。責める響きは、どこにもない。
私は反射的に、頭の中でシフト表を思い浮かべた。
誰がどこを担当しているか。誰が代われるか。欠員は出ないか。
――他で回せる。
その結論は、すぐに出た。
「……そう、ですね」
自分でも驚くほど、素直にその言葉が出た。
反論は浮かばなかった。浮かんだとしても、口に出す理由が見つからなかった。
「じゃあ、少し休んで」
「ありがとうございます」
私は白衣を脱ぎ、椅子の背に掛けた。その動作が、やけに現実味を帯びて感じられる。
ナースステーションの端に移動し、簡易ベッドに腰を下ろす。カーテンを閉める必要はない。今の私は、作業の中心ではない。
モニター音が、少し遠くなる。会話の声も、背景に溶けていく。
私はスマホを取り出し、無意識にシフト表のデータを開いた。
今夜の配置。欠員なし。全員分、埋まっている。
私の名前も、そこにあった。ただし、担当欄は空白だった。
「……」
喉が、かすかに鳴った。
配置されていない。外されたわけでも、消されたわけでもない。
必要がなかっただけだ。その状態を、私は何度も人に与えてきた。
そのたびに、「全体のため」「無理させないため」と説明してきた。
今、同じ言葉が、自分に向けて使われている。
「休めるときに休んで」
カーテンの向こうで、誰かが言う。
私は返事をしなかった。必要がないからだ。目を閉じると、病棟の音が遠ざかる。
夜勤は、私がいなくても進んでいく。それは、安心すべきことのはずだった。
欠席者はいない。誰も抜けていない。現場は、回っている。
それでも胸の奥で、静かに理解してしまった。これは排除じゃない。これは判断だ。
そしてその判断は、
私自身が、最も正しい形として使ってきたものだった。
私は目を開け、天井を見た。白い蛍光灯の光が、均一に広がっている。
欠席者がいない夜勤は、確かに理想的だ。ただ、その理想が成立するために、誰が「不要」になるのかを、私はもう、はっきりと知ってしまっていた。




