第四話 決定事項
記録を閉じても、頭の中のざらつきは消えなかった。
夜勤の中盤。病棟は相変わらず静かで、モニターの音だけが規則正しく鳴っている。安定している。問題はない。そう言い切れる状況のはずだった。
私は、もう一度だけ、過去のログを開いた。
業務記録ではない。自分が残してきた、調整用のメモだ。夜勤の割り振りや、急な欠勤が出たときの対応をまとめた、私個人の覚え書き。
日付順に並べ替える。
画面に現れたのは、見慣れた文言の列だった。
「今回は外す」
「他で回せる」
「全体を優先」
「大事にならないように調整」
どれも、私の言葉だ。
誰かに命じられたわけじゃない。会議で決まったわけでもない。現場の空気を読んで、状況を見て、私が選んだ表現。
その中に、あの名前があった。
最初は一行だけだった。
「体調を考慮し、今回は外す」
次の週。
「人員は足りているため、夜勤は見送り」
さらに次の週。
「本人の負担軽減のため、配置せず」
理由はどれも、もっともらしい。
どれも、その場では誰も反対しなかった。むしろ、感謝された。
「助かります」
「無理させなくていいですよね」
そう言われるたびに、私は頷いてきた。自分は間違っていない。そう信じていた。
ナースステーションの奥で、同僚たちが小声で話している。笑い声も聞こえる。
空気は穏やかだ。誰も追い詰められていないように見える。
私は画面に視線を戻した。
決定事項。
どのメモの末尾にも、その言葉が添えられている。
「決定事項として共有」
共有した相手は、全員だ。
メールを送り、口頭で伝え、シフト表に反映させた。だから、誰も「知らなかった」とは言えない。
同時に、誰も「決めた」とは言わない。決めたのは、全体。
私は、ただ整理しただけ。そう思ってきた。
「……今夜も、回ってるね」
先輩が、ステーションの椅子に腰かけながら言った。
私は反射的に頷く。
「ええ。問題ありません」
その言葉が、喉を通るとき、少しだけ引っかかった。
問題がないのは、誰かが欠けていないからだ。そう信じてきた。
でも、本当にそうだろうか。
欠席者はいない。
代わりに、“配置されない人”がいただけだ。私は、自分のメモをスクロールし続けた。
その名前が出てくるのは、ある時期で終わっている。理由を書く必要がなくなったからだ。配置しないことが、当たり前になった。
それでも、その人は退職していない。
病院のどこかには、まだいる。昼勤には入っているかもしれない。だが、夜勤という現場からは、静かに外された。
事故は起きていない。患者は守られている。夜勤は、回っている。
私は椅子に深く腰掛け、背もたれに体重を預けた。
疲れのせいか、目の奥がじんわりと痛む。
「判断、間違ってたかな」
小さく呟く。
だが、その問いに答える声は、すぐに浮かんだ。
――間違っていない。
――正しかった。
――あの時点では、最善だった。
そうだ。
現場は常に選択を迫られる。全員を守ることはできない。だから、優先順位をつける。それが調整だ。それが仕事だ。
私は、自分にそう言い聞かせながら、もう一度シフト表を開いた。
今夜の配置。
欠員なし。
全員分、埋まっている。その中に、私の名前もあった。調整担当、夜勤サポート。
名前があることに、少しだけ安心する。
まだ、私は“中”にいる。
ナースコールが鳴る。
私は立ち上がり、画面を見る。別の部屋だ。対応者の欄には、すぐに誰かの名前が表示された。
それを見て、ふと、考えた。
もし今、誰かが「今日は無理です」と言ったら。私は、どう判断するだろう。
頭の中に、自分のメモの言葉が浮かぶ。
「他で回せる」
「全体を優先」
同じ言葉を、同じように使うはずだ。それが、私の役割だから。
その瞬間、はっきりと理解した。私は、誰かを排除してきたわけじゃない。
解雇したわけでも、責めたわけでもない。
ただ、決定事項として処理してきただけだ。その積み重ねが、今の病棟を作っている。
私は、もう一度だけ、あの名前の行にカーソルを合わせた。
クリックしない。開かない。必要はない。もう十分、分かってしまったから。
ナースステーションの時計が、また一分進む。
夜勤は、まだ続く。欠席者はいない。
それが、この病棟の誇りだ。
そして同時に、それが、最も疑われない決定事項でもある。




