第三話 記録だけが残る
夜勤が中盤に差しかかると、病棟は一段静かになる。
ナースコールの回数が減り、モニター音だけが一定のリズムで流れ続ける。
忙しさが落ち着くこの時間帯に、私はいつも記録を整理する。
パソコンを立ち上げ、業務ログを開く。
入力漏れがないか、引き継ぎに矛盾がないか。夜勤の判断は、後から振り返れる形で残しておく必要がある。そう教えられてきたし、私自身もそれを大切にしてきた。
過去数か月分の夜勤表を遡る。
日付、担当者、配置。画面に並ぶ行はどれも似通っている。
欠員なし、問題なし、特記事項なし。優秀な病棟だと、誰が見てもそう思うだろう。
ふと、ある名前に目が留まった。
最初は、気のせいだと思った。
何度も見ているはずの一覧なのに、その名前が妙に新鮮に感じられたからだ。
「あれ……」
声に出してから、慌てて口を閉じる。
名前自体は特別じゃない。珍しくもない。顔も思い浮かぶ。真面目で、口数が少なく、頼まれた仕事は断らないタイプだったはずだ。
問題は、その後だった。
日付を進める。
翌週、その名前は夜勤に入っていない。さらに次の週も、入っていない。
代わりに、別の名前が増えている。ヘルプ、と小さく記載された欄。
その欄が、いつの間にか常設のようになっている。
退職記録を確認する。異動の履歴も、長期休職の申請もない。
「……おかしいな」
私は独り言を呟いた。
夜勤に入らなくなっただけなら、あり得る。体調や家庭の事情で、夜勤を外れることはある。
だがその場合、必ず記録が残る。申し送りにも書かれる。
この名前については、何も残っていない。
「最近、夜勤入ってたっけ」
私は近くにいた同僚に声をかけた。
軽い調子で、確認するだけのつもりだった。
「え?」
「○○さん」
同僚は一瞬だけ考える素振りを見せ、それから曖昧に笑った。
「どうだったかな……最近は、見てない気がする」
「休み?」
「たぶん。そんな感じだったと思うよ」
“そんな感じ”。
その言葉が、妙に引っかかった。
確信がないのに、話はそこで終わる。深掘りする雰囲気でもない。
「事故とか、なかったよね」
念のために聞くと、同僚は首を振った。
「ないない。記録も全部問題なしでしょ」
「……そうだね」
私は画面に目を戻した。確かに、事故報告は一件もない。
インシデントも、ヒヤリハットも、ゼロではないが通常範囲だ。
病棟は、何事もなく回っている。
それなのに、その名前だけが、記録の中で薄くなっている。
消えてはいない。完全に消えたわけじゃない。ただ、配置されなくなっただけだ。
私は、自分がこれまで書いてきた調整メモを開いた。
そこには、慣れ親しんだ言葉が並んでいる。
「今回は外す」
「他で回せる」
「全体を優先」
どれも、覚えのある判断だ。
どれも、その場では正しかった。少なくとも、私はそう信じていた。
画面の端に、時計が表示されている。
時間は、確実に進んでいる。
私は、名前の行にカーソルを合わせた。クリックすれば、詳細が開く。
その一瞬、指が止まった。
開いてしまえば、何かが確定してしまう気がした。
今はまだ、「よくあること」で済ませられる。夜勤から外れただけ。
特別な意味はない。そう思おうとした。
だが、胸の奥で、別の考えが静かに浮かぶ。
――欠席者を出さないために、
――別の形の不在を作っただけじゃないのか。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
ナースステーションのモニター音が、変わらず鳴っている。
病棟は安定している。患者は守られている。誰も困っていない。
それでも、記録だけが、何かを訴えている気がした。
「……今夜も、欠席者なし」
自分でそう呟きながら、私は画面を閉じた。
その言葉が、少し前とは違う重さを持って胸に残っていることに、この時の私は、まだ深く考えないようにしていた。




