第二話 休まないという選択
夜勤が動き出すと、時間の流れ方が変わる。
一時間が短く、一分が長い。モニターの音に合わせて仕事をこなしていると、気づけば時計の針が思ったより進んでいることもあれば、逆に、まったく進んでいないように感じることもある。
三一二号は落ち着いていた。
対応者欄に表示された「全員」という文字は、その後すぐに通常の表示へ戻った。
名前が一つ、普通に出ている。誰の名前かは、はっきり見えなかったが、警報は止まり、廊下の足音も散っていった。
「バグだよね」
私は小さく呟いた。
夜勤のシステムは古い。時々、意味の分からない表示をすることがある。
そう思うことにした。
ナースステーションに戻ってきた同僚が、コーヒーを注ぎながら言った。
「三一二、大丈夫だったよ」
「ありがとうございます」
声はいつも通りに出た。
胸の奥に引っかかっていた違和感は、仕事に追われるうちに少しずつ薄れていく。
夜勤は考えすぎると回らない。だから、割り切ることも大事だ。
そのとき、ステーションの端で、誰かが深く息を吐く音がした。
「……ちょっと、頭が痛くて」
振り向くと、後輩が椅子に腰かけていた。顔色が悪い。
蛍光灯の下で、いつもより白く見える。
「大丈夫?」
声をかけると、彼女は小さく頷いた。
「少し休めば、平気だと思います」
「無理しないでね」
そう言いながら、私は反射的にシフト表へ視線を落とした。
今、誰がどこを担当しているか。誰かが抜けた場合、誰に負担がかかるか。
数字と名前が、頭の中で素早く組み替えられる。
今夜は患者数が多い。
急変リスクのある部屋もいくつかある。
ここで一人抜けると、他の誰かが二部屋、三部屋を兼任することになる。
「少しだけ、横になりますか」
私はそう言いながら、すでに答えを出していた。
「……できれば」
「ごめんね、今夜はちょっと厳しいかも」
言葉を選んだつもりだった。
きつくならないように、責めているように聞こえないように。
「患者さん、立て込んでて」
「今、みんな無理して回してるから」
後輩は一瞬だけ目を伏せ、それから、ゆっくりと頷いた。
「分かりました」
「終わったら、少し座ろう」
私はそう付け加えた。
それで十分だと思った。配慮も、説明も、必要な分は尽くした。
後輩は立ち上がり、廊下へ向かった。歩き方は、少しだけ遅い。それでも、誰も止めない。誰も代わりに行こうとは言わない。
夜勤では、それが普通だ。
「判断、早いですね」
先輩が、感心したように言った。
「迷ってると、現場が崩れるから」
私はそう返した。
実際、その通りだった。迷いは連鎖する。誰かが休めば、別の誰かも休みたくなる。それは責められることじゃない。でも、現場としては困る。
だから、線を引く。それが私の役目だった。
時間が過ぎ、巡回が続く。
後輩は、特に問題なく業務をこなしているように見えた。ナースコールにも出ているし、処置もしている。少し顔色は悪いが、誰も口には出さない。
「大丈夫そうだね」
誰かが言う。私は頷いた。問題は起きていない。結果がすべてだ。
ふと、ナースステーションのホワイトボードが目に入る。
夜勤メンバーの名前と担当が書かれている。全員分、きれいに埋まっている。
欠員なし。
私は、その言葉を心の中で繰り返した。
欠員がない夜勤は、成功だ。
それなのに、さっきの後輩の顔が、頭から離れなかった。
休めばよかったのか。代わりを立てるべきだったのか。
その問いは、すぐに別の声に打ち消される。
――今夜は無理だった。
――患者さんが待っている。
――誰か一人の体調より、全体だ。
正しい判断だ。私は、自分にそう言い聞かせた。
ナースコールが、また鳴る。私は立ち上がり、対応者を確認する。
誰かの名前が、すでに表示されている。
それでいい。全員が役割を果たしている。
欠席者はいない。私は、画面から目を離し、廊下を見た。
人影が行き交う。白衣がすれ違う。
数は、合っている。そう思いながらも、なぜか胸の奥で、小さな引っかかりが消えなかった。
休まないという選択が、今夜も、静かに積み重なっていく。




