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空席のある同窓会【続編】 第一話 欠席者を出さない病棟

夜勤の入り口は、いつも現実から少しだけ切り離されている。

日中の外来のざわめきも、エレベーター前の列も、救急の怒鳴り声も、消灯の時間を過ぎると薄い膜の向こうへ押しやられる。廊下の照明は落とされ、足元の誘導灯だけが、病院の骨格を静かに示している。

壁の白は昼よりも青く見え、アルコールと洗剤の匂いが冷たく鼻に残った。

ナースステーションに入ると、モニターの音が最初に耳へ届く。

ピッ、ピッ、ピッ。規則正しい心拍のリズムに混じって、ときおり短い警報が鳴り、そのたびに誰かが立ち上がる。

音は怖くない。慣れている。むしろ、音があることが安心材料になる。音が止まる方が、よほど怖い。

「おつかれ」

声をかけられて振り向くと、先輩がカーディガンの袖をまくりながら、いつものように軽く手を上げた。

目の下の影は濃い。夜勤の顔だ。彼女は笑うのが上手い。

どれだけ疲れていても、平然として見せる。

「今日も、落ち着いてるといいね」

「そうですね」

返事をしながら、私はパソコンの前に座った。夜勤開始の時刻。

まずは引き継ぎ、次に担当割り、そして見回り。手順は決まっている。

決まっているのに、夜勤はいつも決まった通りには進まない。

私はシフト表を開いた。印刷された紙の端が少し丸まっている。

昼間に総務が出した最新のものだ。枠に並んだ名前の列を指で追う。

夜勤者、準夜、深夜、ヘルプ。欠員欄は空白だった。

「欠員、なし」

自分で声に出して確かめた。言葉にすると、肩が少しだけ軽くなる。

欠員が出ると、その瞬間から夜勤は別物になる。

誰かの担当が増え、誰かの手が足りなくなり、事故の芽があちこちに生まれる。

夜勤は余裕で回すものじゃない。余裕がない前提で、ぎりぎりを綱渡りする。

だから、欠員がないというだけで、すでに“良い夜”の条件をひとつ満たしている。

「今夜も欠席者なしだね。助かる」

先輩が、引き継ぎのメモを束ねながら言った。

欠席者。病院でそんな言葉を使うことはあまりない。でも夜勤では、誰もが同じ意味で理解する。来ない人がいない。抜ける人がいない。現場が崩れない。

「ほんと、助かります」

私は笑って返した。口にした瞬間、その言葉の軽さに少しだけ違和感が走る。

欠席がないだけで、ここまで安心するのはおかしい。

そう思う一方で、安心してしまう自分もいる。

おかしいのは分かっている。でも、それが現場だ。


引き継ぎが始まる。日勤のスタッフが、眠そうな目をこすりながら、患者の状態を簡潔に伝える。

輸液の速度、バイタルの推移、転倒リスク、家族対応の注意点。

私は頷き、メモを取り、頭の中で担当者を配置していく。誰がどの病室を回り、誰が処置を担当し、誰がナースコールを拾うか。

いつも通り。いつも通りのはずだった。

「三一二号、点滴のルート要注意。昨夜抜去しかけてる」

「はい。深夜は……」

私はシフト表を見た。三一二号の担当は誰だっけ。視線が紙の上を滑る。

名前は並んでいる。人数もいる。なのに、担当の像が頭の中で結びつかない。

誰があの患者を見ているのか、すぐに浮かばない。

「……深夜は、誰が入ってますか」

口にしてから、自分で自分に苛立った。そんなことは調整担当なら即答できなければならない。

私はもう何年も、この病棟で夜勤の割り振りをしてきた。名前も顔も、勤務の癖も、全部知っているはずだ。

先輩がシフト表を覗き込み、何でもないことのように言った。

「深夜は、いつものメンバーだよ。ね」

「ええ、いつもの」

私は頷いた。いつもの。いつものメンバー。その言葉は便利だった。

曖昧で、誤魔化しが効いて、誰も困らない。現場は回る。だから“いつもの”で済ませる。

引き継ぎが終わり、夜勤者同士で短い打ち合わせをする。

担当割りはスムーズに決まった。誰も不満を言わない。誰も「無理です」と言わない。

全員が、淡々と自分の担当を受け取る。いつもより整いすぎているくらいだ。

「じゃ、回り始めようか」

誰かの一声で動き出す。白衣の裾が揺れ、スリッパの音が廊下へ散っていく。

私はナースステーションに残り、シフト表をもう一度見た。欠員はない。名前は全員分ある。配置も埋まっている。完璧だ。

なのに。

廊下へ目をやると、視界に入る人数が少ない気がした。看護師の背中が、いつもより少なく見える。そんなはずはない。

さっき全員揃っていた。引き継ぎにもいた。声も聞いた。

「気のせい」

私は自分に言い聞かせた。夜勤の最初は、いつもこうだ。まだ目が冴えていない。環境の音に慣れていない。脳が昼のリズムを引きずっている。

モニターが短く鳴る。私は立ち上がり、画面を見る。三一二号。心拍は安定。

ナースコールも鳴っていない。問題はない。問題はない、はずだ。

「三一二、見に行くね」

誰かが言った。背中越しの声で、顔は見えない。私は反射的に「お願いします」と返した。声はいつも通りだった。頼む相手が誰か、確かめもしないまま。

相手は廊下へ消えた。

私は、自分の手元にあるシフト表を見下ろした。三一二号の担当者欄。

そこには確かに名前が印字されている。読もうとすれば読めるはずだ。

なのに、目が滑る。文字が頭に入らない。読んだ瞬間に抜け落ちる。

まるで、その行だけが薄い膜で覆われているみたいに。

冷たい汗が、背中に一筋落ちた。

夜勤の病棟で、怖いのは幽霊じゃない。誰も、そんなものは見ない。

怖いのは、救急の急変と、手の足りなさと、判断の遅れだ。私はそう思ってきた。

だからこそ、欠員がないのは安心のはずだった。

「欠席者なし」

先輩の言葉が、頭の中で繰り返される。

欠席者がいないのに、なぜ私は、欠席者を探しているみたいな気持ちになっているのだろう。

ナースステーションの時計が、カチリと音を立てて一分進む。

いつもなら気にしない音が、今夜はやけに大きい。モニターのリズムが続く。

廊下の奥で、誰かの足音が遠ざかる。

私は、シフト表の端を指で押さえた。紙の感触は現実だ。冷たく乾いている。

そこに書かれた名前も、現実のはずだ。

それでも、胸の奥にひとつだけ、説明のつかない不安が沈んでいく。

欠席者がいない夜勤は、たしかに助かる。

けれど——

欠席者がいないはずなのに、誰かの存在がうまく数えられない夜は、何より危ない。

私は息を整え、画面の患者リストを開いた。自分が落ち着けば、現場も落ち着く。

そう信じてきた。今夜もそれでいい。そう思った。

そのとき、ナースコールが鳴った。

ピン、と短い電子音。

三一二号。

表示の横に、対応者の欄が出る。

誰かが押せば、そこに名前が出る。

私は、画面を見つめた。

次の瞬間、対応者欄が更新された。

——「全員」。

一瞬、理解できなかった。

全員? そんな表示、今まで見たことがない。システムのバグか。設定ミスか。

私はマウスを握り直し、画面をクリックしようとした。

その前に、廊下の方で、いくつもの足音が同時に揃った。

まるで、合図が出たかのように。

私は立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、甲高い音が夜のステーションに響く。

欠席者がいない夜勤が、始まったばかりだった。

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― 新着の感想 ―
現場の緊張感と心理的な違和感が細かく表現されていて、読者も夜勤の空気に引き込まれます。最後の「全員」という表示と足音の描写が、不穏さを一気に増幅させていて、静かな恐怖感が印象的でした。現実的な恐怖と心…
第一話|欠席者を出さない病棟 導入から不気味さが完成している一話。 病棟という「安全であるはずの場所」を、 同調圧力の極致として描いたのが秀逸。 欠席してはいけない 一人だけ違う行動を取っては…
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