第四話 異物
会話は、また穏やかな話題へと戻っていった。仕事の近況、子どもの話、最近行った店。どれも無難で、誰の意見も否定されない。
笑い声もある。だが、そのどれもが、どこか薄い。
俺は、さっきから妙な感覚に囚われていた。
音は聞こえている。言葉も理解できる。
それなのに、自分だけ半拍遅れているような気がする。
「……なあ」
タイミングを見計らって、口を開いた。
「欠席者がいないって、そんなにいいことか?」
俺の言葉が終わったあと、ほんの一瞬だけ、全員の視線がこちらに向いた。
否定されると思った。あるいは、笑われるかもしれない。
だが、そうはならなかった。誰も、何も言わない。
沈黙というほど長くはない。ほんの一拍。
だが、その一拍のあいだ、俺は確かに「全員に見られていた」。
「どうした急に」
誰かが笑う。
「いいに決まってるだろ」
「でもさ」
俺は続けた。
「全員揃ってないとダメ、みたいなのって……ちょっと極端じゃないか」
否定の言葉は、返ってこなかった。
代わりに返ってきたのは、柔らかい相槌だった。
「考えすぎだよ」
「大人になったってことじゃない?」
「問題起きてないんだから、いいじゃん」
どれも正しい。反論しづらい言葉ばかりだ。
「問題が起きないのはさ」
俺は、少し言葉を選びながら言った。
「誰かが、無理してるからじゃないのか」
一瞬、箸の動きが止まった。
だが、それもすぐに元に戻る。
「無理?」
「誰が?」
「そんな人、いる?」
全員が、本当に不思議そうな顔をしていた。演技には見えない。
俺は、そのとき気づいた。
この場で“無理をしている人間”は、すでに集団の認識から外れている。
だから、誰も思い当たらない。
話題が変わる。
俺の発言は、拾われなかったわけではない。
ただ、必要なものとして扱われなかった。
視線が、少しずつ合わなくなる。俺が誰かを見ると、相手は一瞬遅れて目を逸らす。
偶然だと片付けるには、回数が多すぎた。座布団の位置も、いつの間にか微妙に変わっていた。円は円のままだ。
だが、中心が、ほんの少しだけ俺から遠ざかっている。
「……トイレ」
俺が立ち上がると、誰も止めなかった。
気づいた様子もない。
通路を歩きながら、背中に視線を感じなかった。
振り返っても、誰もこちらを見ていない。
用を足して戻ると、会話は途切れることなく続いていた。
俺が席を外していたことを、誰も話題にしない。
「今、何の話してた?」
そう聞くと、一瞬だけ間があった。
「……ああ」
誰かが言う。
「さっきの続き」
続き。だが、俺はその“さっき”を共有していない。
グラスに酒を注ごうとすると、瓶が遠い。誰かが注いでくれることもない。
「自分でやるよ」
そう言った声は、やけに響いた。その響きが、場に馴染んでいない。
そのとき、はっきりと理解した。欠席者はいない。全員、出席している。
それでも、この集団には“調整”が必要だ。
欠席という穴を作らないために、誰かを欠席扱いしないために、異物が一人、必要になる。
俺は、円の外に押し出されているわけじゃない。
円の中にいながら、少しずつ“含まれなく”なっている。
笑い声が、また上がる。全員が、同じタイミングで。
その輪の中で、俺だけが遅れて笑った。
誰も気づいていない。少なくとも、気づいた顔はしていない。
それでも、次から俺は、笑うタイミングを少し早めるようになっていた。
そのズレが、もう取り返しのつかないものだと、なぜか確信してしまった。




