45.聖女の扱いとは
60年前の帝都
「助けてくれー!」
至るところからそんな悲鳴が上がる。黒い靄――穢れが人を飲み込まんと蠢き、増殖する。
「早く立て!逃げないと……!」
男性が座り込む妻の手を引っ張り上げようとするが地面に膝を付いたままの妻がゆっくりと口を開く。
「…………逃げるって……どこに……………………?」
のろのろと上げられた顔。その目に浮かぶは暗き闇、深い絶望だ。
「……ふ…………ははっ……ははははははははっ!」
お終いよ、と狂ったように叫ぶ妻の手を思わず離しそうになるがしっかりと握ると穢れから守るように身体を抱きしめる。
ははははは………………っ……ふぅ……ふぅ……っ……
笑いは静かな嗚咽に変わる。
その背を撫でながら目をぎゅっと瞑る。せめてこの身が意識を保っている間はこのままで。自分の……妻と二人の世界にこもる。
――――?
――――???
――――??????
――わあーーーーーっ!
――助かったぞーーっ!
助かった?空耳だろうか?
――聖女様万歳!
聖……女…様?
…………!!!
ばっと顔を上げると耳にはっきりと流れ込んでくる歓声、涙を流しながら安堵の表情や歓喜の表情を浮かべる人々。
助かったのだ。
妻も自分も。
彼は叫んだ。
離れた場所でこちらに背を向け立つ聖女に。
「ありがとうございます聖女様ーーーー!」
こんな歓声が溢れる中で聞こえるわけがない。
だが――――
たまたまかもしれない、
でも彼には、
聖女ノアが振り返。
微笑んだように見えた。
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穢れ祓いを終えたノアは王宮に戻った。
当時の聖女は幼き頃に神官庁に預けられ育ち、十分穢れ祓いができると判断されると序列が高い国順に派遣される決まりだった。ちなみに住まいは王宮である。ノアは当代一の聖女と言われ、最強の国と言われるこのシルビア帝国の王宮に10歳の頃から住んでいた。
ノアは帝国の出身者だったので、故郷を離れずに済んでほっとしたものの、平民の身分たる自分に場違いな王宮に住むことに不安を募らせていた。
「お疲れノア」
「レオ様」
声をかけてきたのはこの国の皇太子レオだ。金色の瞳と髪の毛を持つ美丈夫。
「本当にお疲れ様。無理させてしまってごめんなさいね」
レオの背後に控えていた金色の瞳と緑色の瞳を持つ美女が声を掛けてくる。
「レイチェル様」
彼女はレオの婚約者、まもなく皇太子妃となり後に王妃になる公爵令嬢だ。
3人は皆同い年。レイチェルは生まれてすぐに皇太子の婚約者にされた為、度々王宮を訪れた。かれこれ8年ほどの仲であり、ノアの不安はこの2人によってだいぶ緩和されたものだった。
この国の王子と公爵令嬢という高貴な身分でありながら、平民出のノアを軽視することなく、幼き日は仲の良い友として、現在は聖女として尊敬の念を向けてくれる心優しき二人。
ノアは2人をちらりと見る。
二人とも顔色悪く、げっそりと疲れ果てている。
どちらが無理をしているのか。
「ノア様!新たな穢れです!すぐにお越しください!」
このところの各地の異常な量の穢れの発生により休む暇などない。
「「ノア……」」
ノアは二人の心配そうな視線に軽く頷くと背を向け走り出した。
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「今夜のディナーにございます」
あれからまた数件の穢れ祓いを終えたノアは深夜に夕食の席に着いたのだが――。
少々申し訳なさそうな気の毒そうな声音と共にお付きの下っ端神官がコトリと置くのは新鮮なサラダだ。そして少々お固めのパンと一口サイズのお肉一切れ、冷たくなったほぼ具のないスープ。
下っ端君、そんな表情をする必要などないのに。平民としては極上のメニューだ。それに現在は色々と混乱しており、毎日食事にありつけない人もいる。
ありがたいことだと思わなければならないらしい。
神官長曰く、民の反感を買わず貴族に生意気と取られない食事とはこんな感じらしい。そして聖女が十分ありがたいと思える食事のギリギリラインがこの目の前の食事とのことだ。
まあ下っ端以外の神官たちはもっと豪勢な食事をしているのだから、不満ありあり。なあぜ?なあぜ?と思うところなのだが。
ありがたいと言えばこうして申し訳なさそうな表情を浮かべてくれる人がいるということに対してはそう思う。
もくもくと食べているとするりと人が入ってくる気配。
「レオ」
「相変わらず粗食だね」
「そう?平民には十分よ」
心にも思っていないことを言う。
「……君は聖女だろ?今この国は、いや世界は聖女で保っているんだ。連日働きづめでこの量はおかしいだろう?食べなければ君も能力が活かせないはずだ」
そう言って彼はぱちりと指を鳴らすと湯気が揺らめくチキンや籠に盛られたパンがテーブルの上に現れた。レオは下っ端神官に視線を向け人さし指を口元に持っていく。
神官はぱっと腕を組み、居眠りしているふりをした。
見て見ぬふりしますということのようだ。
それからは他愛もない話をしながら食事を口に運ぶ。こうしているだけで疲れが飛ぶようだ。こののどかな時間が続けばよいのに。
だが――今のこの異常な穢れをなんとかしなければそんな時は訪れない。今この時にもどこかの聖女は穢れと戦っていることだろう。
あ、だめだ。暗い気分に――――。
「あら、先を越されてしまったのね」
ひょっこりと顔を覗かせたのはレイチェルだった。
彼女の手にはクッキーや焼き菓子が乗った皿があった。
「レイチェル様……ありがとうございます」
「ふふ、これくらいしかできなくてごめんなさいね」
これくらいなどではない。聖女がそんな嗜好品を食すなど言語道断とばかりに買うのも禁止、食べるのも禁止なのだ。自分たちは賄……こほんっ、信仰者たちからの差し入れを食べまくっているくせに。
レイチェルを交え、雑談に興じ、楽しい一時を過ごした。しかし、3人共暫し明るい気分になったものの不安を拭うことはできなかった。
先行きの見えない不安。
いつまで続くかわからない未曾有の穢れの襲来。
だが、更なる悪夢が来ることを誰も予想することはできなかった。




