第81話 雪と海の境界線にて
子シンシアについては思い出す暇もなかったというのが正直なところでしたけれど、『それはつまり、忘れていたということだろう?』と問われれば、たしかにそうとも言えるので、私は黙り込むしかないのです。
この時、子シンシアは『精霊王捜索隊』にあずけられていたわけなのですが、シンシアは『親切なおかたに』とだけ述べたので、私はやはりまだ精霊王捜索隊という隠密諜報部隊の情報について知らず、『シンシアが子シンシアをあずけようと判断する相手なら、信用できるだろう』という程度に納得しておりました。
ちなみにですが、この精霊王捜索隊は私が雪の領域に帰ったあとも海の領域に残り、ミズハたちの布教活動を援助することになったらしいのですけれど、この時の私はやはりそんなことは知りませんので、このあと海の領域で精霊信仰が版図を増していく流れを、『不思議だな』と思っておりました。
思えばその広がりかたは私が精霊王になった時とよく似ていて、『昼夜神殿というものが圧力をかける中で、そのかけかたのバランスを間違い、抑圧にたえかねた名前のないものに精霊信仰というちょうどいい名前を使われて、一つの意思を持った集団として形成されていった』というものなのでした。
上から抑えつけると、ある程度まで下の者は耐えますけれど、耐えきれなくなると折れるか反発するかで、反発する者たちが集まる旗印をちょうどよく用意できれば、人々が『それ』になって今まで自分らを抑えつけていたものに抗すると、そういうものがあるようです。
為政者の立場から見ますと、本来ばらばらな集団に一つの名前をあたえなければ民は反発したくとも力を合わせられないということになりますので、やはり昼夜神殿の失敗は、邪教をひとまとめに『精霊信仰』という名で呼んでしまったことにあるのではないかと、そう思えてなりません。
私が今さらながら気づくこの流れは、オデットや宰相には当然気づかれていたようなのですけれど、それでも彼らが私を『精霊』とみなすのは、そういうふりをしているのか、それとも、理知的な人特有の論理的帰結から私を精霊として判断しているとでもいうのか……
ともかく私はそのように論理的布教など想像もしておりませんでしたから、村を半焼させられたミズハたちがそれでいいと言うなら、まあそれでいいのかなと思い、すっかりすべての仕事を終えた気持ちになって、精霊王国に帰ることとしたのです。
帰りに冒険者組合のあの腰の低い偉い人に会ってあいさつをし、救援要請の要件がすっかりすんだことを確認し、私たちはまた、彼が手ずからこぐ船で気候変動線そばの船着場まで進むことになりました。
この段になって私はようやく『なぜ、昼夜神殿はシンシアを狙わないのだろうか』ということに思いいたりましたので、船旅中のひまに任せてぼんやり口にすれば、シンシアよりも冒険者組合の偉い人がぎょっとしたように、こんなことを早口に述べました。
「それはもう、シンシア様ほどのおかたは、我々にとっても宝でありますから。ええ、ええ、もう、これを襲撃されたとあれば、我々としましても、微力ながら昼夜神殿に抗議をせねばなりません。どうぞ、そのようなおそろしいことは、おっしゃらないでください。言霊というものも、あるのですから」
昼夜神殿というのは国家にとって重要なものですが、それは冒険者組合も同じなのです。
しかも昼夜神殿はその構成員の中の二割三割ぐらいしか戦士団はおりませんけれど(これはそもそも規模が巨大なので二割三割でもかなりの数ではあります)、冒険者組合は特性上その九割以上が戦う力を持っておりますから、単純な戦力として考えれば、あらゆる組織にとって脅威なのです。
もちろん冒険者は独立独歩の気風が強いので、組合が号令をかけても礼儀正しく穂先をそろえて『さあ、戦争だ』ということにはならないでしょう。
けれど『絶対にならない』というほどでもなく、しかも今は冒険者組合の内部で急速に精霊信仰が広まっておりますから、昼夜神殿がうかつなことをすると『冒険者組合の中で一番広まっている教えが精霊信仰』という状態から、『冒険者組合は精霊信仰旗下の組織』というように変化してしまいかねません。
これをおそれているから昼夜神殿は冒険者組合相手にあまり派手な行動は起こせない、というようなロジックがあったようでした。
もちろんシンシアはこの複雑なパワーバランスを理解したうえで私と子シンシアを連れて、いわば『敵の領域』とも言うべき海の領域への遠征を決意したようなのです。
これはシンシアの『お兄様』ももちろん理解していたようで、この当時に私がこぼした『なんでシンシアは襲われなかったんだろう』は、冒険者組合の偉い人に対する意趣返し……『シンシアが浮気相手と秘密の旅行をしていると勘違いされたことへの仕返し』と思われたらしく、それがシンシアの快活な笑いを誘ったのでした。
「いえもう、本当に、わたくしどもは、シンシア様の味方でございますから。これほどのお力を持ち、冒険者組合への貢献はなはだしいおかたは、なんとしても、お守りいたします。この身を盾にしようとも、必ず」
これは格好いい意思表明というよりは、やはり彼ら特有の卑屈さを感じさせるウィット、いわゆるリップサービスもまじったものだったように思われますが、冒険者組合の偉い人がシンシアとその連れの前でこの発言をしたというのは、かなり政治的に大きな意味を持つようでした。
かくして帰り道にいきなり襲撃をかけられるということもなく、我々は気候変動線までたどりついたのです。
世界を四つに切り分けるその線沿いに立ちますと、からっとして暖かい海の領域の気候を背に感じながら、もう目の前は際限なく降り積もる雪景色というありさまなのでした。
私が雪の領域を離れていたのは数日のことでしたけれど、やはりその数日で都合よく豪雪問題が解決するはずもなく、待ち望んだ帰郷だというのに気も重く、うっかりシンシアに『もう二、三日ぐらい、海の領域ですごさないかな』と言いかけてしまいました。
しかし口に出す前に誰かに肩を叩かれたので、私はそんな、責任知らずなことを言わずにすんだのです。
肩を叩いたのは、オデットでした。
「もう少し海の領域にいたほうがいいよ」
なんだろう、オデットも観光をしたいのだろうか、などと能天気なことを思った私は、やはり誰かに刺されて死ぬべきなのかもしれません。
事態はもっとずっと深刻であり、なおかつ、私はそうなっていることを、可能性の一つとして想定しておくべきだったのですから。
「王城が民に囲まれて、精霊王を出せと大変な騒ぎなんだ。あなたはもう少し身を隠していたほうがいい」
……精霊王として過ごした期間の中で、もっとも思い返すのをためらう時期を一つあげろと言われたならば、ここからの時期になるでしょう。
この当時まではたしかに、私に対する批判的な声も多く聞こえ、私はあくまでも民衆のあいだでは『文句を言える相手』であり、『失敗もする、人間』だったはずなのです。
それが現在、もうほとんどが『いい評判』しかなくなってしまったというのは、この時期にやったことが、間違いなく原因と言えるでしょう。
『精霊王降臨』と呼ばれる事件が起きてしまいます。
今思えばクーデターで滅びるべきだった私の国は、こうして宗教国家としての方向性を明確にしていくことになるのでした。




