第37話 遠行
公爵というのはもちろんルクレツィアの親であり、私の義理の親にもあたりますから、これの救援に行かねばならないというのは、ほとんど反射的に思ったことでした。
しかし当の娘たるルクレツィアといえば冷静なもので、救援せねばと逸る私を見て首などかしげつつ、こんなふうに述べるのです。
「まあ、焦る必要はないのではなかろうか」
このあんまりな発言に、私は一瞬で冷や水を浴びせかけられたかのようになりました。
こういうふうに落ち着かれると、私は、自分がなにか重要なものを見落としているのではないかと疑ってしまうのです。
その『重要なもの』は私以外にとってはいちいち言及するまでもなく明らかで、今さらまさか認識していない者がいるとは想像さえおよばず、であるからわざわざ語ったりしないと、そのぐらい当然のものなのではないかと、そういうふうに、思うのでした。
この『当然のこと』をもちろん私は認識していませんから、素直に聞けばきっと、彼女たちは丁寧に教えてくれるのでしょう。
しかし、だめなのでした。
私はそれが当然のことであればあるほど、申し訳なくて質問できなくなってしまうのです。
認識していなければのちのち重大な問題を引き起こす可能性があり、今、そこで聞けば、少しだけの手間で済むのだというのも、わかって、いるのです。
けれど私はその『少しだけの手間』を私のために割かせるのをおそれているのでした。
けっして見栄からではなく、申し訳なさから私は『当然のこと』について質問できず、さもわかっているように、あるいはわかっていないように、あいまいに微笑み、人が察しておのずから解説してくれるのを待つ以上のことは、できないのです。
今回、ルクレツィアは『救援を急がなくていい理由』について語ることはありませんでしたので、私も、いつもの笑みを浮かべ、彼女の言葉に同意だかなんだかわからないうめきを返し、その場はそれでおしまいになったのです。
それ以上その話に言及する前に、話題が変わったというのも、あります。
その転換後の話題というのが、これまで気にしていたいっさいのことを忘れてしまうぐらいに衝撃的なことだったのです。
「そういえばアナスタシアの葬儀だが……」
と、ここでも言外に『当然知っているべきこと』が隠れていました。
けれどさすがにここは聞きのがすことができない思いで、私は玉座から立ち上がらんばかりになり、ルクレツィアに問いかけることができたのです。
「アナスタシアの葬儀? アナスタシアは死んだ?」
そこでルクレツィアが『そういえば、言っていなかった』というような、極めて牧歌的な『うっかり顔』になったので、私は彼女の発言が冗談なのかなと思ってしまいました。
しかし、冗談ではなかったのです。
「うん、アナスタシアは死んだ。出兵後のスキに侵入者があったようで、それにやられたらしい」
「それは、その……」
「犯人はオデットが捜索中だ」
しかしこの犯人は、今もって見つかっていないのです。
たしかにわが国は弱く、出兵の規模を考えれば、王宮や治安の守りに使っている人員をかなり割かねばならなかったのも、わかります。
そしてそれが『精霊国王の権威と身柄の安全のため』の出兵であり、国の守りを手薄にしても兵をつぎこまねばならない事態だったのも、わかるのです。
けれど、アナスタシアが死……
その悪い冗談のような、あまりにもあっさり告げられた事実を前に、愕然とし、力をなくし、私は玉座で崩れるように背もたれへ体重をあずけました。
アナスタシアのことを、愛してはいなかったのでしょう。
けれど、助命を決意し、妻に迎えるつもりがあったものですから、彼女もきっと妻として扱おう、愛情をそそごうと、そういう決意はあったのです。
しかし、死んでしまった。
どうしようもないむなしさが胸中を真っ黒にぬりつぶしていくのを感じました。
それはついこのあいだまで言葉を交わすことのできた人間が、もういないということによるむなしさでは、あるのです。
けれど私は、私の冷酷で薄情な心を、ここに告白せねばなりません。
私の心によぎったむなしさのうち、決して少なくない割合が、『徒労感』なのです。
今回、里帰りにいたったそもそもの動機は、『アナスタシアの待遇について、両親に相談する』というものでした。
この旅路であったことはすべてが意味を持って現在につながっているとは言えないのですけれど、両親を『隣国子爵』とみなしてしまったことも、流されるままシンシアと精霊式の結婚をしてしまったことも、昼神教神官戦士団に立ち塞がられたことさえ、私は得難い経験と思っていました。
ところが旅の理由であるアナスタシアが死に、それと同時に、アナスタシアをどう扱うかという、長く私を悩ませた問題は、私がなんの決断をするまでもなく、消え去ってしまったのです。
こうして記録を認めながら、私は、私の心の抱える不整合性について思いをはせることになっています。
なんの決断もせずに問題が自然と解決するというのは、私が常に願っていたことなのでした。
だというのにいざそうなってみると、これまでにした努力や苦労、乗り越えた葛藤……すべてが無意味になった気がして、とてつもなく、むなしいのです。
それはアナスタシアの死という事実以上に私の体から力を奪い、気力を限界まで減らし、指先一つさえ動かせないほど私の心身を重くせしめました。
「アナスタシアが、死んだ……」
それは自分の意思で発した言葉ではなく、何者かが私の体を操ってつむがせた、意味のない音のように思われました。
ぞっとするほど感情の抜け落ちたその声は、自分で出したように思われないだけに違和感が強く、今でも再現できるほどはっきりと覚えています。
「精霊王はお疲れだ。もろもろの問題は私たちに任せて、どうか休んではくれないか? ……あなたがそのように落ち込んでいるのが、私にとってなによりも悲しいのだ」
ルクレツィアの気遣いが、身に沁みました。
私はそれに甘えるしかできないのです。
奮い立って公爵の援護に向かうことも、アナスタシアの死を悲しんでその犯人探しに注力することも、できません。
ただ、甘えることだけが、私のできる最上の、気遣いへの返礼なのでした。
「今は休んで、そうして改めて結婚式をしよう。我々の結婚式は昼神式だったけれど、もはや昼神教は許せる相手ではない。きちんと精霊式に、やり直すべきだと思う」
精霊王は幾度も婚姻を交わし、そのたびになにかの事件が起こり、多大な経済効果をもたらしたという記録が残されています。
精霊王の結婚はなにか悲しいことがあった時に民を元気づけ、苦境にあっても愛する人と結ばれていいのだと、いわゆる『自粛』の空気を払拭し経済を回す目的があったと、のちに学者が語っているようです。
しかし私にそんな深い考えはなく、ただ妻がそう述べるので、それが素晴らしいことのように思え、唯々諾々とうなずいたという、それだけのことなのでした。
言いつけ通りに部屋に戻れば、私は深く深く、長い眠りに落ちました。
疲れ果てていたのです。いろいろなことが起こりすぎたあまり、私の薄弱な精神は摩耗しきり、もはやなにもなせないほどになっていたのでした。
私一人だけがここまで疲弊しているということもないでしょうが、私にできることなぞなにもないという思いもあり、大人しく休み、英気を養うことにしたのでした。
夢を、見ました。
格子越しにちょっと話しただけで、あとは多忙から道で行きあって二言三言交わしただけの、アナスタシア。
美しい金髪の少女が私のほうにちょこちょこと寄ってきて、手をとり、微笑む姿。
……彼女との結婚は、私に、いわゆる『幸福』をもたらしたのでしょうか?
わかりません。私は、今さらわからないことばかりを思い、おとずれることのなかった空想上の未来にばかり、『もしかしたらそこに、幸福があったのではないか』と思ってしまうのです。
アナスタシア。
……ああ、アナスタシア。お前を殺した犯人に、殺意を抱くこともできないこの私を、どうか、許してほしい。
純粋な悲しみが、ほしい。慟哭の涙を流すほどの強い感情が、ほしい。
なにを差し出せば、『妻候補が死んで悲しむ』という、普通の人があたりまえに持っている感情を手にすることができるのだろう?
アナスタシア。
この記録を認めながら、改めて不幸な身の上であった彼女の冥福を祈りたいと思います。
どうか、信じた昼神の身許に彼女の無垢なる魂がのぼっていきますように。
私は昼神を信じません。そもそも、神や精霊といったもののご利益は信じません。それでも、神を信じる者には、神による祝福があってほしいと、そう思うのです。




