第29話 精霊と精霊子
「精霊王におかれましては」
と、両親がひざまずき、そのように切り出す姿を見て、私の中でなにかが崩れ去っていくような、そういうひどくむなしい気持ちがふくらんでいきました。
王侯貴族の社会というものは、親子という関係の前に、身分・立場というものがきます。
たとえば娘が陛下に嫁いだならば、親は『王妃様』として娘に礼を示さねばなりません。
隣国の国王となった私に対し、両親がひざまずいてあいさつをするのは、なにもおかしなことではない。おかしなことでは、ない。……おかしなことではないというのに、ひどく、寒々しいような、そういう気持ちになるのです。
「苦しゅうない。面を上げよ」
幾度も繰り返した儀礼の通りにそう述べた時、私は自分が『彼らの子供』から『精霊王』になり、二度と戻れないのだという確信にいたりました。
両親はきわめて儀礼的に、貴族として正しい言葉遣いと仕草で、私の結婚式に参上できなかったことを詫び、その理由を語りました。
かつての私であれば、その言葉をなんのてらいもなく信じたことでしょう。しかし今は、両親の背後に『国』が見え、彼らも王国の政治のためにこうして私に会い、言葉を告げ、私を意のままにしようとしているのではないかという、そういう妄想が私の中でぬぐいされないほど鮮明になっていっているのです。
ええ、きっと妄想なのでしょう。
しかし、それをいかに妄想だと思おうとしても、私の中で『あながち妄想とも言い切れないのではないか』という一抹の疑いが残る限り、私にとってそれは、『裏取りができていないだけの真実』になってしまうのです。
信じたかった。
私は誰かに全幅の信頼をおきたいと、この時からはっきりと願うようになっていきました。
シンシアは尽くしてくれます。ルクレツィアもオデットも、アナスタシアさえも、私のためになにかをなそうとしてくれていることは、わかるのです。
私は妻たちからこれほど尽くされているにもかかわらず、彼女らを完全には信頼できないでいるのです。
誰かをてらいなく信じ、誰かにてらいなく信じられる、そういう、暮らし。
なんと素敵なものなのでしょう。しかしそれはどうにも、この小心で疑り深い私には、無縁のもののようでした。
「精霊王におかれましては、第一王妃についてお悩みであるとの……」
「よい」
「……しかし、我々は精霊王の悩みを取り除きたく」
「よいのだ」
さえぎるように言葉を発したあと、両親の表情を見てしまいました。
それは傷ついた顔だったのです。息子ににべもなくあしらわれて悲しむ、親のものに、違いなかったのです。
けれど私は、それさえも演技なのではないかと思ってしまいました。
この世に信じられるものはなにもなく、なにより私は、己を信じていない。信じられない己の曇ったまなこに映るものなど、信じられるはずがない。
両親さえ信じないと決めた私の胸中にあるのは、はてしないむなしさばかりだったのです。
『信じない』という決断がもたらしたものは、なんとも苦く嫌な気持ちだけ、なのでした。自分でなにかを決めたというのに、その決断におおいに不満で、しかし発言も態度もなかったことにはできず、私は『私が選んだのだから』という理由だけで、一歩だけしか進んでいなかった道を、これから邁進せねばならないような、強迫観念に囚われてしまったのでした。
今でも私の心には常に『誰かを信じたい』という悲痛な響きがあります。
しかし、信じられないのです。
信じてみようといっぱいに努力して歯を食いしばっても、ほんの小さな、けれど無視できない声で『こいつも、他の連中と同じなのではないか』という言葉が胸によぎるのでした。
私が煩悶としているあいだにも両親がまだなにか言い募ろうとする気配がありましたので、私はつい、このようなことを述べてしまいました。
「第一王妃は、すでに決めてある。このたび、余はそなたらに『決定』を告げようと思い、故国へと戻ったのだ」
決まっているわけがないのです。私には『決断』の能力がないのですから。
しかし私はもはや、両親になにも、私の政治に対して口を出してほしくなかったのでした。
それが、子が当たり前に親に抱く反抗心であったならば、どれほどよかったか。
しかし真実は残酷なまでに、そういったかわいらしいものとは違うのです。
私は、両親が一言発するたびに、どうしようもなく両親を信じられなくなってしまう心地でしたから、これ以上彼らへの信頼を減じたくない一心で、彼らに黙ってほしかったのです。
信じていたかったのです。齢二十をこえてなお、私はまだまだ、子供だったのです。親を信じ、親に甘え、親に頼りたかった。頼る余地を完全に失いたくなかった。
だから、これ以上彼らを信じられないようには、なりたくなかったのでした。
すべて、私の心の持ちようの問題なのです。
だからこそ、その対処法は私にしかわからず……いえ、私にさえ、わからないのです。とにかく思いつく範囲の中で被害を食い止める方法を試していくしかないという、ひどい状態、なのでした。
「すでに、ご決断なさっておいででしたか」
両親はそれだけ述べて、どこか安堵したように息をつきました。
「ああ、すでに、決断している」
私は両親の言葉を繰り返しました。そこに中身などはなく、ただ、これ以上政治的なことに口を出されたくない一心のみがありました。
「……おそれながら申し上げます。あなたは、我らの唯一の子です。我らに子は、あなたの他におりません」
それを私は愛情の深さを示すための表現だと受け取りました。
政治的な意図がまったくないとは思えませんでしたけれど、それでも、王となってしまった私への、両親からの温かい声援だと、受け取ろうと努力したのです。
のちにわかることですが、たしかに声援の意図もあったとは思うのですけれど、この言葉の真意は、当時の私が思いもしないことなのでした。
それは私がこの国に滞在している最中に、意外なかたちでわかることになるのです。
「どうぞ、貴国の繁栄と発展……そして王妃様との睦まじき将来を、お祈り申し上げます。夜の神……いえ、精霊と、精霊の子に」
隣国子爵からの祝辞なのでした。
ですから私も精霊王として応じました。
こうして待ち望んでいたはずの対面はあっさりと終わり、私は夜の魔術塔の面々に連れられ、行進の列をこの国で待つことになりました。
私の失踪についてはいちおう箝口令が布かれたようなのですが、あれほどの集団の口に戸を立てられるはずもなく、『精霊王の不思議』の一つに数え上げられるかたちですっかり広まってしまったのでした。
シンシアともつつがなく合流し、私は『私を運ぶ隊列を待つ』というおかしな状況で、彼女とのんびり、王宮の来賓室で語らう時間を持つことができました。
彼女は私が唐突にいなくなったことで自分がどれだけ心配したかを語り、それから私と両親とのあいだにあった会話についておおむね聞いたことを語り、そして、
「嬉しいです、お兄様」
と、真っ白い頬をわずかに紅潮させ、そう語りました。
このころになると、私は妻たちの発言に連続性がとぼしく、私からすると、わけのわからないつながりかたをするのに慣れていましたから、その発言についてもさして気にとめることはしなかったのですが……
慢心はいつでも、私の首を真綿で締めてくるのです。
このころ、世間では、私がシンシアを第一王妃に選んだことになっていたのだと、そんな事実をちっとも知らず、呑気に故郷のお茶の懐かしさに胸をいっぱいにしていたのでした。




