第27話 シンシアという妻
『多大な支援をしてくれている隣国へ向かう途中、その行進の列から抜け出すなど、なんとけしからんことだろう! 一国の王として臣民の命をあずかる自覚のない、ひどく無責任な行いだ!』
私は誰かに、そう言われることを願っているのでした。
過去の軽率な行動を思い出すたび、私はそれが適正に罰せられ、人々の見る『精霊王』という幻想が崩れ去ることを、望んでいるのです。
しかし私の行動がそのように『受けるべき評価』を受けたことはいまだなく、この時の軽率で、考えなしで、愚かで、多くの人の人命・人生をふいにしかねない蛮行も、『精霊王』の評判を高める結果につながってしまうのでした。
私とシンシアは、こっそりと行列を抜け出し、逃げました。
ちょうど、精霊国と、私たちの故郷たる国との国境沿いなのでした。
当然ながら精霊王の行進が行われているあたりは警備も厳しく、この『要人に万が一の間違いもあってはならない』という気合いが、あたりの空気をぴりぴりとさせているほどでした。
未来の視点から振り返れば、私とシンシアの行いはこうした警備兵たちの人生を終わらせかねない、本当の蛮行にほかならなかったと、わかります。
しかし当時の私は『逃亡』に必死であり、他ならぬ私を守るために配置された兵たちの警戒網を目前にして、『どうしてこの人たちは、こんなにも職務に熱心でいられるのだろう。少しぐらい、さぼってはくれないものか』と厄介さに舌打ちしかねない思いでいたのです。
私からすると蟻の通る一穴さえも見当たらない見事な警備網はしかし、シンシアからすれば、古びたザルのごとき、隙間だらけのもののようでした。
彼女は私というお荷物を引き連れてこの警備網を抜けるあいだ、ずっと楽しそうに、美しい銀髪を揺らし、足でリズムをとるようなことさえ、していたのです。
私はといえば、手を引かれながらシンシアの背を見て、その大きさにおどろいていました。
私の中にあったのは、あの、七歳の当時の、台所に捨てられていた彼女のようでした。
なにを考えているかわからない、無表情の、抑揚のない声でしゃべる、幼い少女……
痛みきってごわごわになっていた毛先の面影はもはやなく、十七になったシンシアの髪は、雪に照り返される光を受けて、つややかに、美しく、刃のように輝いていました。
私が思わずその美しさに幻惑されて彼女の髪を一房とると、シンシアはいつもの無表情で振り返り、小首をかしげます。
行動の理由を問われていると察した私が「あまりにも美しかったから」と、他の言い回しを考える余裕もなかったので素直に答えると、シンシアはちょっと動きを止めてから、視線を落として、小さな声で礼を述べるのでした。
彼女が妻であるという事実が、急に、胸中に去来しました。
精霊子と呼ばれる理由たる左右で色の違う瞳は、ますます艶めき、彼女がその白い頬に全然感情を表さなくとも、内心を訴えかけてくるようになっていました。
背はあまり伸びませんでしたが、すらりとして美しい肢体は芸術品めいたおもむきがあり、ただそこに立っているだけで目を惹くような、見事なかたちに整っているのです。
この少女が、私の妻。
その時に私が覚えた感情は、『恐怖』なのでした。
美しいものが、おそろしいのでした。優れたものが、こわいのです。
そのように尊いものが私の妻などという位置に収まっている事実は、手の中に小さく、しかし強力な魔獣でも抱えているような、そういう不安を私にもたらすのです。
今、私の手の中でかわいらしく身をよじる、この小さな美しい生き物は、私がなにかの拍子におそれを前面に出してしまえば、たちまちに暴れて私を喰らい尽くす……そのように思ってしまうのでした。
「シンシア、君は僕に色々なものをあたえられたと思っているようだけれど、事実はぜんぜん、そうじゃないんだ。君が得た名声も、成功も……僕の『精霊王』としての評判さえ、君が君の才覚と実力で得たものなんだ」
私が唐突にこのような発言をしてしまったのは、やはり、おそれからなのです。
どんどんふくらんでいくシンシアの中の『お兄様』という偶像は、いずれ現実とどうしようもなく乖離して、私が彼女の抱くような『お兄様』ではないとばれる日が、絶対におとずれるのです。
私がこのように告白したのは、不意にその『ばれる日』がどうしようもなくおそろしく感じられて、少しでもその日におとずれるシンシアの失望を小さくしたいという、こしゃくな保身からなのでした。
しかし、私の保身的行動は、まったく意味がないどころか、よろしくない結果ばかりをもたらします。
「お兄様、ご謙遜なさらないで。シンシアはきちんと、わかっております。この世界においてお兄様より気高く美しいものなど、いないのです。お兄様からすれば、人生経験が未熟な小娘が視野狭窄に陥っていると思われるかもしれませんが……シンシアも、冒険者としていろいろなものを見てまいりました。そのうえでやはり、お兄様よりも美しい存在など、この世界に……いえ、昼夜の神殿の語る神々の世界にさえ、いないでしょう」
「シンシア、僕は……」
「わかっております。シンシアがうまくやれるか、不安なのですね。お兄様に信じていただけるだけの成果をきちんと示してみせますから、今はシンシアを信じてお待ちください。ルクレツィアも、あの盗賊も、昼神なぞに魅入られた元女王も、お兄様にはふさわしくないのです。シンシアは、わかっております。シンシアとて、お兄様にはふさわしくないかもしれませんが、懸命にお兄様の妻をつとめさせていただきますから、どうか、シンシアに時間をください。お願いします」
もう、なにを言っているのか、わからないのです。
どうにもシンシアがこの逃避行の動機を語っているらしいことは、彼女との長い付き合いでわかるのですが、こうやってとうとうと語る彼女の目には光がなく、その視線が私のほうを向いていても焦点がどこに合っているのかわからず、とにかく私は、沈黙し、うなずくしかできなくなるのです。
精霊子。
不意にその言葉が、強い力をもって私の胸中に響いたように思われました。
精霊は男に不幸をもたらす美しい生き物なのです。その行動原理はまったくの不明で、しかし男は魅入られ、ずぶずぶとはまっていき、ついには愛する人を裏切り、人生さえも呑まれる……
古典演劇に出てくる精霊というものについて、私は父の教育もあってずいぶんくわしいつもりでいます。シンシアはまさしくその精霊のように、私には感じられたのです。
彼女と話していると、『今すぐ言葉を止めろ!』と叫びたくなるようなおそろしさと、いつまでもその静かで美しい声を聞き、金銀の瞳に見つめられ続けたい欲求とが、私の胸中に同居するのです。
シンシアの手を握りながら逃亡しているうちに、私は国に残した妻や、王という立場にまつわる責任が、どうでもよくなってくるのを感じていました。
もちろん私は『逃亡』という行為をよくし、逃亡の最中には『その果てにすべての問題が消え去っているに違いない』と思うものですから、逃亡中に逃亡をやめたくなることは、ありえないというのは、あります。
しかしそれでも、この逃避行の相手がシンシアでなければ、国賓待遇の行進の最中に逃げ出す罪深さに耐えかね、握られた手を振り払っていたようにも、思われるのです。
……半日ほど逃げ続けて、私たちは懐かしい故国へと入りました。
シンシアは冒険者の伝手で『信頼できる、口の固い者』から外鍵のついた部屋を借り受け、そこに私を導くと、やはり鍵をかけてどこかへと出かけていきました。
このころになると私も、外鍵をかけられることにおどろいたりということはなくなっていましたので、むしろ自分で鍵をかけられる部屋より安らかな気持ちで、出ていったシンシアを待つことができました。
正直に告白すれば、私は、出入りさえ自分の自由にならないこの環境を、好んでさえ、いたのです。
責任というやつが嫌いなのでした。決断という能力がないのでした。
自活できないままなんだか王にまでなってしまったのです。
その途中で王になろうという意思をもったことはなく、なにか問題がのぼってくるたびに、『どうして私が、こんなことをしなければならないのだろう』という不満めいた気持ちが、ほんのわずかながら、わいてしまうことはどうしようもないのです。
私が望むのはやはり自分の能力のおよぶ範囲での平穏な生活なものですから、王というのはいかにも重く感じられます。
責任感が皆無であれば早々に投げ出していたのでしょうけれど、まったくないというほどでもなく、なにより立場を投げ出したあとの生活のあてもなければ、多くの臣民を見捨てたことで恨まれるのもおそろしく、結果としてずるずると精霊王などというものをしている状態なのです。
しかし、出入りさえも自由にならない部屋の中で、なにも知らされずに待つこの時間、私はなにもしなくていいのです。
『なにもできない』というのは、本当に得難い安息なのでした。
自分の力が及ぶ余地があるうちは、背中を見えない槍につつかれているような、疲れていても、倒れかけていても、とにかく前に進まねば、背後から誰かに刺されるような、そういう強迫観念があるのです。
しかし今の私は、なにもできません。
この状況になった時、初めて私は背中をつつくものが消え去ったように感じることができるのでした。
あらゆる強迫観念や焦燥感は消え去り、部屋に一つきりのベッドに腰かけて、汚い木目の天井をながめながら、ぼんやりと口を開けて、思考をまったく止めることが、できるのです。
思えば私は、永遠に誰かに閉じ込められることを望んでいるのかもしれません。
……ああ、しかし、私はいつでも救われてしまうのです。
どうかこのまま、閉じ込められたままいたいと願ってさえ、私は誰かの手によって救出され、そうして『精霊王』へと引き戻されてしまうのでした。
こういう時に私を救い出すのは、シンシアか、オデットか、ルクレツィアかというところなのですが、この時は、また違った、当時の私が知らない者の手により、救われたのです。
すなわち、夜の魔術塔勢力。
今回の大行進の原因であり、ある意味で私とシンシアがゆくえをくらますきっかけとなったその組織が、私の安息を奪い、再び世界へと私を放り出したのでした。




