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23/28

3時34分

 屋上で鐘の音を聴いた鮫太郎は、音が鳴り止むとすぐに5階へと降りた。


 いったいあの音は何だったのか。屋上から周辺を観察してみたが、あんな音が出るようなものは見当たらない。あの鐘の音は、この収容所の中から発せられたものであるはずだ。それに、屋上に突如として張られた結界のようなもの。この収容所で、何か異変が起こっている事は間違いないと思えた。


 5階に降りてまず驚いたのは、照明が点いている事である。ついさっきまで真っ暗だったはずだが、誰かが点けたのだろうか? ……いや、そもそも、この廃墟に電気が通っているという事自体が驚きだ。しかも、その明かりは全て赤かった。まるで、拷問室で流れた夥しい量の血が、霧となって空気に溶けたかのように……。

 とにもかくにも、明かりがついて、5階の構造が見渡せるようになった。さっきは菅山を追う事に専念していたため、周囲を全く観察していなかったのだ。


 外周は1階と同様、牢屋になっている。フロアの中央には、他の階と同様まっすぐに廊下が伸びており、向かって右側の奥が、さっきの拷問室である。フロアの右半分は、拷問室ともう一つの大きな部屋が半分ずつ面積を分け合っているようだ。左半分は、拷問室と同じぐらいの広さの部屋が一つ。それ以外のスペースは、外周の牢屋よりはるかに頑丈そうな太い鉄格子で囲まれた檻になっている。


 俺はまず、右手前の部屋を調べる事にした。理由は単純、近かったからである。


 部屋を入るとすぐに、大きな姿見が目に入った。その手前には、シャワーと洗面台。ここはシャワールームのような用途の部屋らしい。そして、その奥にまた扉がある。俺は躊躇わずに、その扉を開けた。


 そこは広い空間だった。天井から吊り下げられた大きな電灯。その下に、人が寝そべるのにちょうど良さそうな大きさの台が、どっしりと据えられている。壁沿いに並べられた戸棚には、様々な形状の瓶がびっしりと並べられているのが見えた。この部屋全体を見渡しての第一印象は、手術室、だった。

 中央の台には、人の手足、そして首にあたる部分に拘束具が取り付けてあった。通常の手術台にはなさそうな設備である。手術台の周囲には、脚にキャスターのついた台がいくつか転がしてあり、その上には、金属製の様々な器具が並べられている。医療ドラマで見たことがあるような気がする形状のものもいくつかあった。俺はその中から、小さな刃物を手に取った。ドラマでは確か、これを『メス』と呼んでいたな。


 メスを赤い電灯の光に照らし、ためつすがめつして眺めた。その小さな刃物は、既に鮮血をすすったかのように赤く煌めいている。確かにこれは、肉を切る上で非常に便利そうである。かつて俺が解剖にハマっていた時は、主にナイフを使っていたものだが、やはりなかなか細かいところでは不便があった。その点、このメスは使いやすそうに見える。早速このメスを使って人の肉を裂いてみたくなった。後で、拷問室に転がっている死体を少し切ってみようか……いや、あれはいずれ警察に調べられる死体である。下手に弄って、痛くもない腹を探られるのは避けたい。いずれこの切れ味を試す機会は訪れるだろう、それまではぐっと我慢。自分にそう言い聞かせて、メスを二本ポケットに入れた。


 周囲を見回すと、この手術室から更に奥へと続く扉を見つけた。その方向へと足を向けた時だった。


 ザッ、ザッ、ザッ……


 シャワールームの方向から、複数の足音が聞こえた。複数という事は、瞬さんと姉貴だろうか。もしかしたら、真紀も既に二人と合流しているかもしれない。俺はくるりと反転して、シャワールームへと戻ることにした。


 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……


 三人にしても、やけに足音が多いような気がする……いや、気のせいだろう。俺はそれほど気にも留めずに、シャワールームと繋がっている扉を開けた。


 その光景を目にした俺は、思わず我が目を疑った。


 姿見から、人の形をした異様な生き物が二匹、這い出ようとしていたのだ。その様子を見て、俺は思わず、テレビ画面から出てくる貞子を連想した。腐った生ごみのような、すえた臭いが鼻を衝く。

 化け物はその二匹だけではなかった。シャワールームの中を、四、五匹のそれが歩き回っている。さっき聞こえたのは、こいつらの足音だったらしい。俺の姿を認めると、一斉にこちらへ歩いてきた。


 なんだ、こいつらは……?

 と考えるよりも先に、体が反応した。これは経験のなせる業であろう。素早く化け物の懐に入り込み、両手に一本ずつ持ったメスをそいつの喉元に当て、さっと切り裂いた。

 どろりとした血液が噴き出すより早く、俺はそこにいた他の獲物の懐に飛び込んでいた。動きが緩慢な上に隙だらけで、容易く急所へと潜り込むことができる。既に始末した奴を含めれば、全部で五体。歩き回っていた奴等を始末するのに要した時間は十秒にも満たなかっただろう。それから俺は、姿見から上半身を出した二匹の化け物のところへ歩いていった。


「おい、何なんだお前らは?」

「うー、うー」


 会話が成立しない。喃語のようなうめき声しか上げることができないらしい。いや、そもそも、こちらの言葉を理解できているのかどうかすら怪しいものだ。何か聞き出せないかと考えて、二言三言話しかけてみたが、全く埒が開かなかった。俺は会話を諦めて、その二匹も殺した。


 改めて、その死骸を観察する。

 人の形をしているが、どう見ても生身の人間ではない。皮膚は醜く変色し、ところどころ爛れている部分もある。頬はこけ、頭髪は殆ど抜け落ち、目玉があるはずの部分には、昏い穴が開いているだけだった。ミイラ……いや、これはゾンビか。


 俺は、こんな奇妙な状況に置かれた自分の冷静さに、我ながら驚いていた。ゾンビだぞ、ゾンビ。そんな非科学的なものを目の当たりにして、こうも冷静でいられるものだろうか……いや、冷静なだけではない。


 血が騒いでいる。


 この体を流れる俺の血液が。闘争本能が、戦いを欲している。菅山の殺人に触発されたのだろうか……いや、それだけではない。このざわついた空気が、俺の本能を刺激しているのだ。


 姿見が赤く光り、鏡の中から、ゾンビの手が再びぬうっと伸びてくる。新手が来たようだ。廊下の方向からも足音が聞こえた。

 どうするべきか。考えたのは一瞬だった。俺はシャワールームを出て、廊下へと躍り出た。やはり、既に数匹のゾンビがうろついている。俺は進路上のゾンビの喉を裂きながら、拷問室を目指した。目的は、あの部屋の壁にかけられていた種々の刀剣だ。おそらくまだまだ湧いてくるであろうゾンビ達と戦うには、この二本の小さなメスだけでは心許ない。戦闘に適した武器を用意しておく必要があるだろうと、直感的に判断したのだ。


 幸い、拷問室にはまだゾンビが湧いていなかった。ゾンビの腐臭とは異なる、人間の新鮮な血腥さが懐かしくさえ思えた。部屋の壁には、ありとあらゆる武器がかけられている。日本刀、槍、レイピア、ファルシオン、鎖鎌、等々。俺はその中から、最も無難な日本刀を選んだ。

 赤い光の中で、刀身に刻まれた波型の模様がきらりと輝いた。

 これでもっと戦える。俺は再び廊下へと飛び出した。


 実はこの時、拷問室に放置されたままだったバラバラ死体は黒い靄に包まれていた。血の臭いに酔っていた俺は、それに気付く事ができなかったのである。


 廊下には、新たに二匹のゾンビが湧いていた。

 日本刀を上段に構えて、そのうちの一匹に躍りかかる。ゾンビは片腕を上げてそれを防ごうとしたが、鋭利に鍛え上げられた日本刀の切れ味はそれをものともしなかった。腕を苦もなく切り落とした上に、体に深い傷を負わせる事ができたのだ。


 楽しい……!


 今度は刀を水平に振り、よろめいたゾンビの首と胴を切り離した。さらに、返す刀でもう一匹のゾンビに襲い掛かる。こっちのゾンビは受けに回らず、両手を伸ばしてこちらに向かってきた。俺は刀の切っ先を相手に向け、心臓に狙いを定めて突き出した。


 ブシュッ!


 ゾンビの腕がだらりと垂れ下がった。突き出された刃先がその心臓を貫き、血に染まった刀身が背中から生えているように見える。刀を引き抜くと、傷口からゴポゴポと、どす黒い血が溢れ出した。


 もう終わりか……そう思った瞬間だった。

 頭上からバサバサと羽音が聞こえ、俺は天井を見上げた。そこにいたのは、大きな羽根を何枚も生やした、鳥のようなゾンビだ。空中を飛び回りながらこちらを見下ろしている。目が合うと、そいつは俺を目がけて急降下してきた。

 咄嗟に刀を構えたものの、僅かに対応が遅れる。


 シャッ!


 鋭い爪が俺の右腕に傷をつけ、そのまま飛び去っていく。一撃離脱戦法、単純だが効果的な攻撃だ。やや遅れて、右腕から血が流れ始める。傷は予想以上に深く、刀の重みを片手では支えられなくなっていた。両手でも、これまでのように軽々と振るう事は不可能な状態である。はっきりいって、ピンチだ、と俺は思った。

 振り返ると、その鳥ゾンビは再びこちらに向き直り、斜めに急降下してきた。右手に持った刀を左手で支えながら、どうにか構えて受け止めようとしてみたものの、やはり細かいコントロールが効かない。


 ザクッ!


 今度は左足に傷を受け、思わず膝をついた。

 痛ェ……。ちょっと調子こきすぎたかな?


 足にうまく力が入らない。立ち上がれずに唸っているうちに、奴は三度目の急降下を始めた。今度は牙を剥き出している。この一撃で決めるつもりだな、と俺は直感した。すると、狙いは俺の首か。奴が接近するまでの数秒間、俺は必死で脳みそを働かせた。


 左右に揺れて、軌道を微妙に変化させながら、奴は降りてくる。口を大きく開け、牙を剥いて俺の首に食いつこうとしていた。

 俺はその瞬間を待っていた。

 左手で握りこぶしを作り、奴の口の中、喉の奥へと拳を突っ込んだ。


 グェッ……!?


 相手の動きが止まる。その間に俺は、右手に渾身の力をこめて刀を握り直した。

 奴は必死で俺の左手を噛み砕こうとしている。その力は思いの外強く、左手の骨がビシビシと音を立て始めた。だが、時既に遅し、だ。

 俺は、あんぐりと開けられたその口の中に刃先を突っ込んだ。


 ギエェェェッ……!!


 刃は鳥ゾンビの口を刺し貫いた。断末魔の叫び声と共に吐き出された血しぶきが、俺の顔を直撃した。ぬるぬるとした感触が顔を覆っていく。


 奴はそのまま、そこに崩れ落ちた。


 勝った。俺は勝った。

 満身創痍の状態ではあったが、絶え間なく分泌されるアドレナリンがその痛みを打ち消していた。顔を汚した血液が、だらだらと口元まで垂れてくる。俺は思わず、それをペロリと舐めた。


 不味い。


 ゾンビの腐った血液なのだから、不味いはずだ。


 しかし、何故だろう……俺はもっと血が欲しくなった。


 何気なく腕の傷を見ると、ぱっくりと裂けていた傷口が、信じられない速さで塞がっていく。肉が盛り上がり、ついには皮膚まで元通りになってしまった。いつの間にか、左足の傷口も治りかけている。

 それだけではない。体中に、不思議と力が漲っているのだ。間違いない、これはこいつの血液の効果だ。


「クックック……ふははははははははは!」


 俺は哄笑した。


 もっとだ。もっと、血を。

 俺は一体どうしてしまったんだろう。自分でもわからない。だが、これまでに感じたことのないほどの狂気が俺を満たしていく。


 その時、また新たなゾンビが数匹、廊下まで這い出して来るのが見えた。俺はすかさず刀を構え、そして叫んだ。


「お前の……血をよこせぇぇぇぇぇ!!!!」

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