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20/28

2時55分

 瞬達三人は、まだ四階にいた。


 すっかり本の虫となった二人は、やはりなかなか動いてくれなかった。懐中電灯の明かりを頼りに、紙の上に視線を走らせている。声を掛けても完全に無視である。きっと収容所の外では、既にノルマを達成して外に出た先輩達が俺達を心配して……いや、むしろ、怒っているだろう。加藤先輩のドスのきいた声で怒鳴られ、菅山先輩にネチネチと詰られる。早くも憂鬱な気分になってきた。

 暇つぶしにスマホを取り出して、ダウンロードしてあった動画――アダルトものじゃないぞ――を一通り見た。それでも二人はまだ動かなかった。

 普段の生活パターンであればとっくに寝ている時間だったのだが、やはりこの収容所の雰囲気のせいか、全く眠気は襲ってこなかった。大きくため息をついて、ちょうど足元にあった椅子に凭れ、視線を宙へと彷徨わせる。


 本を読んでいる人は美しい。


 何のキャッチコピーだっただろうか。だいぶ前にどこかで耳にした、あるいは目にした言葉だ。媒体は忘れてしまったが、このフレーズだけが不思議と心に残っている。読書家の幼馴染を持つ俺には、それを実感する機会が多くある。だからこそ、強く印象に残っているのだろう。

 普段はぼんやりとしている事の多い小雨だったが、本に集中している時の彼女は、祈りを捧げる巫女のように神秘的な雰囲気を醸し出している。いったい、小雨の頭の中には、どんな心象風景が広がっているのだろうか。そんな事を考えながら、彼女が気付かないのをいいことに、読書に熱中している小雨の顔をじっと眺めるのが好きだった。


 しかし、小雨は今、俺に背を向けた姿勢で本に目を落としているので、表情を窺うことはできない。まさか、近くまで行って覗き込むわけにもいかないし……少し残念に思いながら俺は、同じく本に集中している真紀へと視線を転じた。


 そういえば、読書中の真紀の姿を見るのはこれが初めてのような気がする。俺がよく知っている真紀の人格はあまり本を読まないタイプで、せいぜい空き時間に雑誌を眺めている姿を見た事がある程度だった。

 すっぴんの人格の真紀と会ったのは、まだこれが二度目である。こちらの人格がかなりの読書家で、特にミステリを好んで読むという話を、小雨から聞いた事があった。

 前回会った時――彼女はさながら、推理小説に登場する名探偵のようだった――も、今回この禍々しい施設を巡っている間も、真紀は冷徹な表情を全く崩さない。小雨が巫女だとしたら、真紀は何に例えられるだろう。女王のような気品と、魔女のような妖しさを併せ持ったその佇まいが、不思議とこの場所の雰囲気に合っているように感じられる。その存在感を一言で表せるような形容詞など、俺の辞書には載っていない。


 それからさらに数分が過ぎた。本を閉じ、先に顔を上げたのは真紀だった。

「さて……寒くなってきたし、そろそろ上がりましょうか。……小雨? 聞いてる?」

突然声をかけられた小雨は、びくりと肩を震わせた。俺が声をかけた時は無反応だったくせに、この違いは一体何だろう?

「あ、あっ、はい、ちょっと待って……えっと……」

 そう言うなり小雨は、書架の中から数冊の本を抜き取って、ジャケットの内ポケットに突っ込んだ。

「おいおい、それ、持って帰るのか? 勝手にそんな……」

「ここにあったってこのまま捨てられるだけだよ。そんなの勿体ないじゃん」

小雨は悪びれる様子もない。本の事になると人格が変わるのである。

「もういい? じゃあ、さっさと5階に行くわよ」

 今回もやはり真紀の先導で、俺達は5階を目指した。お気付きだろうか? 俺も小雨も、消火栓の事をすっかり忘れていた。スマホで時刻を確かめると、液晶画面には2時57分と表示されている。



 5階へと辿りついた俺達を出迎えたのは、強烈な異臭だった。

「ちょっと……なに? この臭い……」

小雨が鼻をつまんで言った。一体何の臭いだろう……数種類の臭いがないまぜになったような、独特の生臭さだ。

「見て、あそこ……」

 そう言いながら真紀が指差した先には、開け放たれた分厚い鉄の扉と、そこから漏れる明かりが見えた。階段からまっすぐ伸びている通路を少し進んだ所に、その怪しげな扉はあった。

「行ってみましょう」

 ただならぬ気配を感じたのか、真紀は険しい表情でその扉の方向へと歩き出した。俺と小雨も、すぐにその後を追う。


 扉の前までやってきた俺達が最初に目にしたのは、天井からぶら下がったロープと、それに吊るされた菅山先輩の姿だった。ロープがしっかりと菅山先輩の首に食い込み、その顔は苦悶に満ちた表情を浮かべている。足元には、踏み台として使われたと思しきスツールが転がっており、その上に、ぽたり、ぽたりと、失禁した菅山先輩の尿が滴り落ちていた。

「す……菅山先輩!」

 俺は思わず駆け寄った。しかし、やはり既に菅山先輩は事切れている。


 ピチャッ……


 足元でふと、水溜まりに足を踏み入れた時のような水音がした。まさか、先輩の尿がこんなところまで……と下を見ると、そこに広がっていたのは深紅の液体であった。それに気付いた途端に、血の臭いが鼻腔に流れ込んでくる。これは血液なのか……?

 血溜まりを目で追っていくと、そこには、両腕と腰を切断された鹿島先輩の死体が転がっていた。


「うっ……」

 俺は思わずその場から二、三歩後退した。目の前に広がっている光景が、現実のものだとは思えなかった、いや、思いたくなかった。


「ひっ……」

 部屋の外から中を覗き込んでいた小雨も、室内の惨状を目にしてしまったらしい。口を押さえながら、その場でへたりと座り込んでしまった小雨の肩を、真紀が支えるように抱いている。さしもの真紀も顔を顰めているが、しかし、彼女はやはり気丈だった。

「中はどうなってるの……?」

「……よくわからない。菅山先輩と鹿島先輩が死んでる……これ、作り物じゃないよな?」

「そんなわけないでしょう……他には?」

「他にはって……」

 俺は再び、鹿島先輩の上半身を見た。腕や腰の切断面から肉や骨が見え、臓物が飛び出している。我ながら情けないことだが、俺は完全に腰が引けていた。

「怖いの……? じゃあ私が調べるから、瞬は小雨をお願い」

 真紀の蔑むような視線を受けて、俺は自分を叱咤した。こんな事を女の子に押し付けてしまっては、男がすたるというものだ。

「いや、俺が調べる……真紀は小雨を頼む」


 鹿島先輩の上半身には無数の穴が穿たれていた。その奥に、血を吸った鉄の処女――中世の拷問器具だ。空想上のものだとも言われていたはずだが、実在したのか――が据えられている。この状況から、鹿島先輩は鉄の処女に入れられて殺されたのではないか、と推察された。その上半身から少し離れたところに両脚が転がっていて、これもおそらく、鹿島先輩の脚だと思われる。

 ピタピタと音を立てながら血溜まりの中を進んでいくと、部屋の奥まったところに、他にもいくつかの切断された人体が並べられているのが見えた。頭部が見当たらないため、もしかしたらこれは作り物なのではないか、と一瞬期待したものの、近付いてみるとやはり、それは本物の女性の死体だった。

 明日香先輩の脚と、誰かの下腹部と両腕だ。それぞれ肌の色が微妙に違う。色白な両腕は鹿島先輩のものだろう。だとすれば――全く無関係の第三者がいたというレアケースを考慮しなければ――下腹部は福田先輩のものということになる。さらにそのもう少し先には、女性の下腹部が二つ、並べて置かれている。明日香先輩のものと、もう一つは鹿島先輩のものだろうか。三つの下腹部からはいずれも、白い液体が垂れていた。それ以上の事は、おぞましくて考えたくもない。

 部屋の中央に据えられている大きな台のの上には、血の付いたノコギリ、手斧、チェーンソーが並べられている。しかしそれも、部屋中に配置されている拷問器具の数々の中では、おもちゃのように牧歌的に見えた。三角木馬や、無数の針が飛び出た椅子、他にも、用途を想像するのが恐ろしくなるような、異様な外観の道具が、所狭しと並べられている。


 一通り調べ終えて、俺は真紀に内部の様子を説明した。小雨はがたがたと震えながら、俺の話を聞くまいと耳を塞いでいる。

「じゃあ……少なくとも、ここで四人は死んでいるわけね?」

「ああ。恐らく、女性三人は殺されて、死体を切断されている」

 真紀は、つと立ち上がり、菅山先輩の首吊り死体を観察し始めた。周囲をぐるりと回り、特に首の辺りを注意深く見ているようだ。

「多分、この人は自殺ね……足には傷があるけど、致命傷になるほど出血が酷いわけではないし、首に残った痕を見ると、絞殺されたわけでもなさそう」

 こいつはそんな知識も持っているのか……? 真紀がこちらへ歩いて戻ってくると、小雨が突然、何かに気付いたようにかっと目を見開いた。

「鮫太郎……鮫太郎は!?」

確かにその通りだ。殺人事件が起こっているのだから、まずは鮫ちゃんの無事を確認しなければならない。

「そうだ……鮫ちゃんを探そう。加藤先輩と松野先輩もまだどこかにいるかもしれない。探して、合流しなければ」

 真紀はゆっくりと頷いた。

「そうね。急ぎましょう。でも、そのうちの誰かが殺人犯である可能性も残されているから、くれぐれも慎重に。絶対にはぐれないように、注意して進みましょう」


 俺達は、鮫ちゃんの名を呼びながら、収容所内を探索した。

「鮫太郎ー!」

「鮫ちゃん! どこにいるんだ!」

「鮫太郎君!」

時折小走りになりながらも、俺達はお互いを見失わないよう、注意を払いながら進んだ。


 4階の奥まった所にある部屋で、明日香先輩の上半身を発見した。首を絞められた痕がある。もし、先程4階にいた時にこの部屋を見つけていたら……いや、何も変わらなかったか。 

 3階から2階へと降る階段の手前で、喉を切り裂かれた松野先輩の死体を発見した。俺と小雨が3階まで昇ってきた時には何もなかった場所だ。すると、松野先輩が殺されたのは俺達が3階までやってきた後の事なのだろうか。

 2階の休憩室では、頭を割られた加藤先輩と、下腹部を切断され、首に深い傷を負った福田先輩の死体が、うつ伏せで寄り添うように倒れていた。福田先輩は後頭部からも出血している。どちらも、背後から襲撃を受けたようだ、という真紀の推理。

 もはやこの収容所内に、生存者は俺達三人と……そして、鮫ちゃん。四人しか残っていない。加藤先輩も松野先輩も、殺人犯ではなかったようだ。一瞬二人を疑った自分が恥ずかしかった。いや、全ての殺人が同一犯とは限らない。誰かが誰かを殺し、その殺人犯がまた別の誰かに殺された、という可能性もある。だが、そんな事があるだろうか……?

 走って鮫ちゃんを探しながら、俺は乏しい知恵を振り絞って状況を整理していた。すぐ隣を走っている真紀の顔をちらりと盗み見る。名探偵真紀は、この状況を、一体どう考えているのだろうか。


 やがて俺達は、収容所の1階、正面玄関のエントランスホールまで戻ってきた。5階から1階まで決して短い距離ではなかったはずだが、平面図を見ながら走ってみると、意外と時間はかからなかった。一通り全ての部屋を見てきたはずだが、鮫ちゃんの姿はどこにもない。もしかすると、もう外に出ているのだろうか、と考えて、俺は正面玄関の扉を開けようとした。


 ギッ、ギッ、ギッ……


 開かない。びくともしない。やはり、どこか錆びついているのだろうか。鍵にも触れてみたが、こちらも動かない。施錠されているわけではないはずだが……。

 玄関は諦めて、収容所に入る際に使用した通用口の方へも回ってみたのだが、こちらも扉は開かなかった。最後にこの扉を利用したのは俺と小雨のはずで、鍵をかけたような覚えもないのだが……まさか、ここも錆だろうか。嘘だろ?


 つまり、もしかして、俺達はこの収容所に閉じ込められているという事だろうか……?


 通用口も諦めた俺達は、再びエントランスホールまで戻ってきた。窓には全て鉄格子が嵌っていて、ガラスを割ったとしても外に出る事は不可能だ。スマホで時刻を確認すると、画面には3時32分と表示されている。相変わらず圏外だ。カチ、カチ、と、柱時計の秒針が時を刻んでいた。





 ん?


 ……いや、待てよ……


 おかしい。


 ついさっき見た時には、この柱時計は止まっていたではないか……。


 気付けば俺は、柱時計の前に立っていた。


 カチ、カチ、カチ……


 文字盤は3時32分を指している。秒針が9を過ぎ、10を過ぎ……11を通り過ぎた。


 鏡のように磨き上げられた振り子が、懐中電灯の光をキラリとはね返す。顔の前に手を翳して、その反射光を遮る俺の姿が、振り子の中心に映り込んでいた。

冬童話の方が片付いたので、再びこちらに専念します。


縊死にかかる時間を調べ直して、ちょっと時間的に厳しいなあという事で、前2章の時間、サブタイトルを少し前にずらしました。

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