1時25分
瞬は、小雨と並んで、真紀の後ろを歩いていた。
さすがにもうあんなドッキリに遭遇する事はないと思われたが、念のため、周囲を警戒している。しかし、先導する真紀はそんな事を気にする素振りも見せず、小気味よい靴音を響かせながら歩いて行った。
平面図があるお陰でそれほど迷う事も無く、四階へと続く階段に辿り着く。
「ああぁ、それにしても寒いわね……なんであの子はこう、いっつも薄着なわけ?」
真紀が体を震わせながらぼやいた。言われてみれば、確かに真紀はいつもミニスカートのイメージがある。服装を決めているのは、向こうの……と言うとやや語弊を感じるが、俺がよく知っている、メイク後の真紀なのだろうか。
真紀はそのまま、スタスタと階段を昇り始めた。
図らずも彼女の後について階段を昇る事になってしまった俺は、目のやり場に困る羽目に陥った。なにしろ真紀はミニスカートなのだ。見ないように、と思うと、却って意識してしまい、チラチラと視界に入ってしまう。男の悲しき性というものであろう。せめて、コートの丈があと10センチ長ければ……。
煩悶している俺に気付いたのか、小雨が俺と真紀の間に割り込んできた。こういうところはよく気が利く小雨であるが、なんだろう、若干残念にも思えた。
四階まで上がってみると、そこには、ここまで通過してきたフロアとは全く違う風景が広がっていた。
ここまで囚人用の牢獄があった外周部分には、もっと小規模の檻、或いはケージがところ狭しと並べられている。そして、フロアの手前左側には広い空間が設けられていた。特に何かの設備があるわけでもなく……ここは、何のスペースなのだろう。
「いよいよ、禁断の領域ね……」
真紀は不敵な笑みを浮かべながらそう言った。一体ここに何があると言うのか?
真紀は徐に、その檻の方へと歩き出した。俺と小雨は、さながら従者のようにその後をついて行く。
「何なんだ、ここは一体……ここまでの階とは様子が違うな」
周囲の様子を確かめながら、四階の平面図に目を落とす。三階まではずっと、細い通路がクネクネと入り乱れた迷路のような構造になっていたが、四階の右半分はマス目状に廊下が走っており、随分わかりやすい構造になっている。左半分には、大きな部屋が一つある以外何もなく、あとは柱以外何もない、広い空間がとられているようだ。
「三階までは、一般的な囚人のための牢獄として使われていたフロアだったのよ。だから、人間の脱走を防ぐために複雑な構造になっていた。このフロアは、実験用の動物が主に飼育されていたようね……ほら、見てみなさい」
真紀が檻の前で立ち止まる。
ほぼ全ての檻の中に、動物達の白骨化した死骸が転がっていた。犬や猫、鼠、鳥……それだけではない、もっと大型の動物もいるようだ。一般的に実験動物と言うと、マウスやモルモット、或いはそれに類する小動物をイメージするものだが、ここにはさらに多様な動物が飼育されていたらしい。
「みんな、餓死したのかしら……可哀想」
小雨が沈鬱な表情で呟いた。俺は、檻の中を一つ一つ確かめながら、
「動物実験といっても、どうしてこれだけ多くの種類の動物が必要だったんだ? 例えば、仮に薬や毒の実験だったとしても、大体はマウスで事足りるじゃないか。それに……ここには、死刑囚もいたんだ。人体実験だって容易だっただろう。これだけの動物を用意する必要はなかったはずだが……」
「そう、その通り。ここで行われていたのは、そういう類の実験ではないわ。ここには、各地の動物園から極秘で、殺処分、或いは、公式には病死扱いになった動物達が運び込まれている。熊やライオンのような大型動物も、幼いうちに運び込んで飼育されていたようね……ここで行われていたのは、キメラや異種交配の実験よ」
「キメラ……だって?」
俺と小雨は、思わず顔を見合わせた。
「そう。現代では医療目的で研究が進められているキメラだけれど、当時は軍事転用を目的として研究が進められていたみたいね……その時代の科学技術では到底成功するはずもないのに、ね」
「軍事転用……戦車や飛行機で戦っている時代に、そんなものを作ってどうするんだ?」
真紀はその問いには答えずに話し続けた。
「キメラといっても、ある動物に別の動物の組織を移植するとか、そのレベルに留まっていたみたいね。何しろ、当時はまだDNAの二重らせん構造すら解明されていなかったのだから」
「それは……成功したのか?」
「いいえ……まだまだ研究が進んでいない分野だったし、ダメ元でとにかくやってみた……奇跡を信じてね。他にも、別種の動物同士を交配しようとしたり、近い種の動物を交配して新種を生み出そうとしたりもしたらしいけど、どれも失敗。それでも、実験は続けられた……某国の独裁者も、その頃キメラの研究を命じていたそうだし、軍事的にはそれだけ魅力があったという事でしょうね」
「キメラに……? よくわからない話だな……」
「鈍い奴ね……動物の体を弄り回そうっていう連中が、その対象を動物だけに留めておけると思う?」
そこまでヒントを出されて漸く、俺にも真紀が仄めかしている事の意味が理解できた。そういう事か……。
真紀は檻の壁を離れ、四階の右側へと足を向けた。平面図上では、マス目状の廊下で区切られている部分だ。
小雨は、檻の前で手を合わせて祈っている。昔から動物が好きだったし、また動物にも好かれやすい小雨である。俺は、そんな彼女の様子を健気に思いながらも、促して一緒に真紀を追った。
そこは、研究者の個室や実験室が並んでいる一画だった。
どの部屋にも、大量の書物や顕微鏡などの実験器具が放置されている。3階の書庫の時と同様、ここでも再び、真紀は書物に齧り付くように没頭し始めた。書庫とは異なり、研究者の私物の中には日本語の小説も含まれているらしく、小雨も書架を眺めながら目を輝かせていた。
「おお……これは……ドグラ・マグラの初版本……」
そう呟くと、小雨は書架から古びた本を抜き取ってめくり始めた。経験上、本に熱中し始めた小雨は、動かざること山の如しである事を、俺は知っている。こりゃあ、時間がかかりそうだ……。何気なくスマホを取り出して時刻を確かめた。既に一時半を回っている。最後のペアであった俺と小雨が収容所に入ってから、もう三時間が経過しているのだ。もしかすると、既に全てのノルマをクリアして待っているペアもいるかもしれない。スマホの電波は先程からずっと圏外表示なので、誰とも連絡が取れないのがもどかしいところだ。
読書家である二人は本にどっぷりと集中しているが、俺はすっかり手持ち無沙汰になってしまったので、気分転換に廊下に出てみた。廊下に出たからといって、なんの気晴らしにもならないのだが……。
廊下に出てみると、どこからかバタバタという足音が響いてきた。他にもまだノルマをクリアしていないペアがいると知って、俺は少し安堵したが、この足音はどうも騒々しく感じられた。走っているのだろうか。さて、誰だろう?
そんな事を考えながら周囲を見回していると、真っ直ぐに伸びている廊下の向こう側を、懐中電灯を持った鹿島先輩が横切るように走っていくのが見えた。更に少し遅れて、先程のジェイソンの仮面に、チェーンソーを持った人影が追いかけている。どうやら、加藤先輩もまだ残っているようだ。という事は、恐らく福田先輩もまだ収容所内に残っているのだろう。そもそもあの人は、消火栓を探すつもりがあるのだろうか? 未だにドッキリなんかに興じているところを見ると、加藤先輩と福田先輩のペアが一番遅くなりそうな気がした。
最初に入っていった菅山先輩と明日香先輩のペアは、そろそろクリアしていてもおかしくない頃合いかもしれない。
そういえば、鹿島先輩は松野先輩と一緒だったはずだが、どこかではぐれてしまったのだろうか。はぐれたといえば、真紀とはぐれてしまった鮫ちゃんも気になるところだ。まあ、鮫ちゃんなら心配は要らないはずだが……。
しかし、どうにも胸騒ぎが抑えられない。この建物には、何かある……動物実験の痕跡や、人体実験……それだけではない、何かが。
いや、全ては気のせいだ。この雰囲気に飲まれているだけだ。そう自分に言い聞かせてみたが、言いようのない不安を拭うことはできなかった。




